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「メモ」をとることで、失われるもの

以前の記事でも書いたのだが、最近、学校に通っている。会社の経費で夜間の大学に通うことになり、月に数回、業務後に通っている。学生ではなく、研究員という立場である。

正式な学位や資格などはないが、研修という位置付けでもなく、純粋にスキルアップのためにやっている。お金も時間もかかっていることなので、自分なりに真剣に取り組んでいる。

連休前、課題図書として「この本を読みなさい」というものが与えられた。ゴールデンウィーク中に読んだらいい、ということである。普段から読書の習慣はあるので、読むこと自体に問題はない。が、やはりこういうときはふせんを貼ったり、メモをとったりしながら読むべきか、と考えて、そうしようと思ったのだが、はたと止まった。

そういえば最近知ったのだが、「本を読みながらメモをとるのではなく、読み終えてからそれを思い出そうとすることで記憶に定着する」という考え方があるようだ。なので、いったんメモもふせんもなしに通読してから、その本に関して覚えていることをすべて書き出してみた。

なるほど、確かにこうやってみるとあまり重要でない部分はたいして覚えていないし、重要な部分は本質を捉えられている気がする。あやふやなところが逆にはっきりしたので、それを補うために再度拾い読みをしてみたりした。

「勉強」として考えると、どうしても机に向かっての「作業」に時間を割きがちである。特に「ちゃんとやらないと」と気合が入っているものほど、勉強の本質とは関係のない「きれいなノート作り」に熱中してしまったりするものだ。当たり前だがいかにノートが綺麗でも、内容が頭に入っていなければ意味がない。

整理する過程で記憶されることもあるので、もちろん全く意味がないわけではない。が、無駄に労力がかかるし、面倒くさくなって途中で頓挫してしまうこともあるだろう。

「内容を自分の頭で理解すること」が何より大事で、それが正確に取り出せないことはさほど大きな問題ではない。学校の試験だと、「記憶を正確に取り出すこと」が何より重視されるが、実社会ではそうとも限らないのだ。

資料が全くない状態で、それをいかにアウトプットできるかのほうが大事だ、ということがよくわかった。そもそも、何かの対象についてゼロベースで考えるときは、必ずそうなる。頭の中に情報としてないものは、そもそも思考などできないはずである。そのあたりのことが感覚として少しつかめたような気がする。

これは何回かここで書いていることだが、僕はnoteのネタを一切メモしない。思いついたときに書くようにしている。

大昔、10年ぐらい前に別なブログをやっていたときはよくネタをメモしていたのだが、いくらメモが増えても時間が経つと何が肝だったのかを忘れてしまい、使い物にならないということがよくあった。要は、そのとき自分が考えていることを書くから意味があるのだ。

「メモしない」ということが結構大事、ということである。メモというのは、要は短期記憶とか瞬間記憶で、何かの内容をそのままそこにコピーする、という感覚に近い。しかし重要なのは思考そのもので、メモではない、ということである。メモをとったことで安心するな、というのが本意に近いかもしれない。

「メモをとる」のではなく、「思考や記憶を整理する」。これに意味がある。真っ白な紙を持ってきて、そこにわかっていること、知っていることを書き、整理していく。そうしていくうち、何が欠けているかがはっきりし、次の行動も見えてくる。そういうやり方のほうがいいな、と。

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