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「生きてる肉」は食べられなくなる?

以前、渋谷に行ったときに、駅前のスクランブル交差点のところで、フォアグラにされるガチョウについて訴えている人がいた。

以前から動物愛護の文脈でさかんに言われていることではあるのだけれど、フォアグラというのはガチョウの肝臓を材料にした食べ物だが、よりおいしく、大きくするために、大量の餌を与えて肥大化させている。その方法として、チューブで強制的に餌を流し込むなどしてなかなか残酷だということで、古くから問題視されている。

確かに言いたい事は分からないでもないが、それをいうなら家畜というのは最終的には殺して食用とするわけなので、これは残酷であれは残酷じゃない、という線引きがどうしてできるのか、と思う。もっとも、このあたりの倫理観についての話は長くなるので、ここでは語らない。

少し前に「培養肉」について関心があり、ウェブ記事やムックなどを読んだりして情報収集をしたことがある。

「肉じゃないのに肉の味がする」という食べ物は古くからの研究があり、大豆などを加工して肉に見せかけた食べ物などがあったりするのだけれど、最近は、そもそも細胞を培養して、「肉そのもの」を生成することが可能になってきているらしい。

生物学のベンチャー企業などがそういったプロダクトを開発して、注目を集めている。まだまだ普通の人が食すにはコストが高く、食べたことのある人はそう多くはないとは思うが、技術開発によって工場生産が可能になれば、徐々に廉価になり、日常食として手に届く価格になっていくのではないだろうか。

そういったもののコストが下がってきたときに、やはり注目されるのは、「家畜の動物愛護」の観点なのではないか、と考えている。人間の価値観というのは変わりにくいようで、長い目で見ると、どこかの段階でドラスティックに変わるものだと思う。僕は培養肉が一般的になってきた段階で、動物を殺して食べるのが違法になっていくのではないかと考えている。

もちろん今の人ではなかなかそういう感覚は持てないかもしれないが、世代交代していくタイミングで、そういった価値観に変化していくことは十分考えられる。あと30年ぐらいもすれば、世の中がそのように変化していくのでは、と踏んでいる。

奥さんとこの話をしたら、奥さんとしては多分そのような社会が到来する事は無いだろう、と予想したのだけれど、僕は前述の通り、2050年ごろぐらいには、「家畜の肉を食べてはならない」という法律ができる予想をしている。

答え合わせをするためにはそのぐらいのタイミングまで待つ必要があるわけだが、はたしてどうなるだろうか。



よく言われる話として、現代の子供は魚が切り身の形で海を泳いでいたり、スライスされた肉の形で牧場を歩いてると思っていると言われているが、さすがに子どもとはいえそこまで馬鹿ではないだろう、と思う。一方で、僕だって知識として家畜の「生前の姿」を知ってはいるものの、牛や豚が屠殺される現場を見た事はない。実際に目にしてしまうとなかなかショッキングな光景なのだろうとは思う。

そういうショッキングな事実が背景で行われていることを隠すために、一般消費者の食卓に並べる段階ではなるべくわかりにくく加工したり、体裁を整えたりしているのが今の時代だと思う。もし、子どもたちが魚や家畜の本来の姿を知らないとしたら、彼らが無知なのではなく、そのように社会が仕向けた結果だ、と言える。

以前、世界の紀行ものの本を読んでいたときに、ある部族が客人をもてなすためにヤギの生首を出してきて、目玉をくり抜いたり目の前で頭蓋骨を破壊して脳みそを取り出したりしてもてなした、という描写があった。もちろん部族の人たちにとっては悪意のある行為ではなく、「最大のもてなし」としてそういうことをしたのだが、当然ながら旅人たちはびっくりしたらしい。そういった暴力的な場面に慣れていないナイーブな都会人だったら、それを見ただけで失神してしまうだろう。

食事とは、本来暴力的なものだと思う。食事の本質が、他の生物の死骸を食べて自らの栄養とするということなのだから、それは当然だろう。映画「ジュラシック・パーク」でティラノサウルスがおそいかかってくるさまは非常に怖いが、ティラノサウルスからしてみれば、単なる食事である。人間が捕食される側に回るというコンセプトのため、暴力性が浮き彫りになっているに過ぎず、あれが本来の食事という行為の本質なのだ。

文化が発展すると、人類はどんどんナイーブになっていくように思う。もともとの暴力性を表面的に排除し、そういったものを意識しないような文化を作っていく。培養肉の開発の意義として、肉を作るコストや環境破壊への対策などと言われることがあるが、それに加え、そういった本来の暴力性から遠ざけるように文化を発達させてきている、というのが実際のところだろうと自分は推察している。

現代の都会人である自分の感覚からいえば、出てくる肉が家畜のものだろうが、培養肉だろうが、品質や衛生面に違いがないとすれば、どちらでもいい、というのが正直なところである。さて、2050年ごろはどういう倫理観になっているだろうか?

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