小説を読むのは、難しいから

昨今、小説が読まれなくなったと言われて久しい。いろんな娯楽が増えたからだとか言われつつも、シンプルに「小説は、読むのが難しい」のではないかと思った。少しそれについて書いてみる。
 
なぜか、小説は読書人から軽んじられている傾向にある。特に、ビジネス系で読書を勧めている人は、「読書はするべきだけれど、小説は読書にカウントしない」タイプの人が多いようだ。一方で、小説が好きなので、「読書といえば、小説ぐらいしか読んでいない」というタイプの人もいる。小説ばかり読む人、小説は読まない人、の二極化が進んでいるようだ。
 
最近思うのは、小説は、たとえば新書よりも読む時間がかかる、ということだ。なぜそうなるのかということを考えていたのだけれど、新書は書かれている内容を理解することに努めればいいのに対し、小説は「書かれている以上の情報」を読み取る必要があるからだ、ということに気が付いた。


 
小説で書かれている内容はすべて嘘っぱちである。存在しない人物が、ありもしないことをやっている。

歴史小説など、事実を題材にしている小説もあり、綿密な下調べや取材に基づいているものもあるが、どこまでが史実でどこまでがフィクションか、という明確な線引きはない。

司馬遼太郎の作品などを読んでいても、主要な登場人物だと思っていた人物が、実は実在しない創作の人物だった、ということは結構ある。そういうジャンルの小説ですらそうなので、たとえばSFなどであれば、現実にはまだ登場していない技術や、将来的にも開発できる見込みのない技術などが題材として扱われている。

荒唐無稽だ、読むのは時間の無駄だ、と言われても仕方がない部分がある。
 
小説は、表面的に書かれていることをいったん嘘だと認めたうえで、その裏にあるものを自力で読み取らなければならない。表面上の物語を理解することは簡単でも、その裏にある解釈まで到達するのは容易ではない。

おそらく、それに時間をとられてしまうのだろう。そして、慣れていないと、その作品をどう解釈していいのかわからなかったりする。

そういった力を身につけさせるのが、たとえば学校で学ぶ現代文の授業なのだろう。表面的に書かれていることを根拠として、作者は何を意図してこの文章を書いたのか、といったことを読み取る力を鍛えるわけだ。
 
それは、いわゆるエンターテイメントとして作品を消化することとは違う。もちろん、エンターテイメントの世界にもさまざまな技術がある。

エンターテイメントの基本は「感情を揺さぶる」ことだと思う。悲しい、嬉しい、ハラハラする、などの読み手の感情を揺さぶることで、読者を楽しませる技術が試される。

しかし、ただ感情を動かすだけでは、読み手に変化を与えることができない。ジェットコースターに乗って帰ってきたのと同じで、スタート地点に戻ってきたら、乗る前と何も変わっていない、ということになる。

言い換えれば、本当に意味のある読書とは、読み始める前と読み終えたあとに、読者になんらかの変化があることが前提となる。


 
小説は、小説単体では完成せず、それを読み、解釈する読者の存在が必要だから、少し難しいのかもしれない。作者がどう意図したかはあったにしても、その「裏側にあるもの」を解釈するのは読み手だからだ。

書き手が何か情報を伝えたいのであれば、それをわざわざ物語にする必要はなく、メッセージをそのまま書けばいいのだが、小説という形をとることにより、読者に想像させ、解釈する余地を与える。それによって、小説の価値は読者によって完成させられるのだ。
 
そういったやりとりが行われるので、小説を読むのは楽しいが、同時に時間がかかって難しいのかもしれない、と思う。しかし、どれだけエンターテイメントが発達したとしても、決してなくなるものではないような気がしている。

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