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「生きづらさ」の解消

「生きづらさ」を訴える人が周囲に何人かいる。リアルでもいるし、ネットの繋がりでも何人か知っている。

でも、なんでそんなに生きづらさを感じるのか、僕にはわからない。歴史的にみれば格差はなくなってきているし、犯罪率も下がっているし、ブラック企業も以前よりは減ってきて、そんなにお金を稼がなくてもそこそこ楽しい人生が送れてるようになっているのに、なんでそんなに生きづらさを感じるのか、と。
 
でも、解決方法は至って単純だと思う。テレビをみるのをやめて、SNSをやめて、身の回りの人間関係を大事にしたら、少しは生きやすくなるのではないだろうか。もちろん、身の回りに危害を及ぼす人がいたとしたら、そういう人からは離れたほうがいいかもしれないけれど。
 
マスコミや新聞は、ここ半世紀以上、ずっと「激動の時代」ということを謳っているらしい。まあ、常に時代は動いているから、間違ってはないと思うのだけれど、常に激動している、というのはなんだかおかしい。

しかし、実際には存在しないか、あってもわずかしかない格差をことさらに煽るのが仕事みたいなものだから、それを真に受けていると身が持たない、というのはある。

だから、僕は生まれてからこの方、あまりテレビを見てこなかった。単純に、つまらない、と思うからだ。

「勝ち組・負け組」という言い方もそうだと思う。世の中を「勝ち組」と「負け組」に分類したら、半分の人が「負け組」になってしまう。

じゃあ「勝ち組」になった人が幸福に暮らしているか、というと、「勝ち組」の中でさらに「勝ち組・負け組」に分類されてしまうので、決して幸せにはなれない。
 
一般的にみれば、東京大学に通っている大学生は「勝ち組」になるかもしれないが、東大生の中でもさらにいろんな分類に分けられるらしい。たとえば、「地方の高校からきた組」と、「灘や開成のようなエリート校からきた組」に分かれる、というのを聞いたことがある。

そしてもちろん、東大の中でも、成績が優秀な人とそうでない人に分かれる。僕の観測範囲だと、本当のエリートは「勝ち組」という意識すら持っていない。自分で自分を勝手に「負け組」に分類してしまった人が、「それでも、俺はあいつらよりは勝っている」とばかりに勝手に「勝ち組・負け組」に分類してしまっているだけなのでは、という感じがする。
 
昔の上司が、そういう人だった。別にこっちは何にも意識してないのに、「君の出してきたレポートは、旧帝大卒の誰々君が書いたレポートより立派だ」とか、妙な角度で褒めてくる。

それでこちらが喜ぶと思っていたのかもしれないけれど、そんなことを意識したこともなかったので、変な気持ちがしただけだった。その人は、誰かを褒めたり叱ったりするときは必ず、「○○より優秀だ」とか、「××より劣っている」という言い方をした。

自分の中に価値基準がないから、そういう言い方しかできなかったのかな、と思う。
 
「学力」というのは、たまたま点数で比較できるシンプルな指標なだけで、「生きる」ということは他人と比較なんてできない(他人と比較できるように「設計」されたのが学力だ、という見方もできるが)。

ものすごくマニアックな研究をしている人がノーベル賞をとったからといって、その人の努力がそこで報われた、というわけではないことと一緒だ。ノーベル賞はそれを表彰する人がいたからたまたまそうなった、というだけであって、たとえ世間では価値がわからなくても、ノーベル賞ものの研究をした人は、たとえ賞などもらえなかったとしても、その成果に到達しただけで、十分報われただろう。それと同じこと。


 
変に煽ってくるマスコミやSNSから自分を遠ざけ、本当に価値のある何かを探すこと。「生きづらさ」を解消するには、それがまず第一歩かな、と思う。

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