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名前のない状態について

いま自分がやっている仕事は何か、と問われたとして、それなりにちゃんと説明はできるのだけれど、ひとことで説明するのはけっこう難しい。

たとえば医者や弁護士や教師みたいに、一般的にすぐにわかる職種の名前がついていたらもう少し簡単かもしれないが、そういう仕事の人たちも、一般的にイメージしやすい名前の職業だというだけで、世間一般でイメージされる仕事内容と、実際の仕事内容は異なるはずだ。みんな、少しずつ、「説明が難しいこと」をやっているのでは、と思う。
 
こないだ、アニメ映画監督の庵野秀明のドキュメンタリーを見ていたのだけれど、、新作の映画の絵コンテを切らなかった、ということを話していた。

通常、アニメを制作するときには、作画スタッフが作画する「元」となる、漫画のような絵コンテの制作からはじまる。その絵コンテからアニメーターが動きを読み取って、統一性のあるひとつの作品を作り上げていくのだ。

なぜ絵コンテを作りたくなかったかというと、「絵コンテがあると、安心してしまうから」だという。要するに、絵コンテがあることによって、シーン自体が理解しやすくなるものの、それがどういうシーンなのかが、厳密に規定されている状態になってしまい、アニメーターが自分でシーンを考えるということがなくなる。

作業効率が高くなり、統一感はでやすくなるかもしれないが、意外性が生まれにくくなる。「これはこういうシーンです」というのは決まっていると作業がしやすいけれど、本当に面白いものを作ろうと思ったら、そういうやり方じゃ作りにくいのかな、と。


 
仕事の「肩書き」というのも、なんとなく、それに近いような気がした。人はなんらかの肩書きを求める。「自分はこういう仕事をしています」ということを規定したがる。あるいは、なんらかの肩書きのある状態を将来的な目標に置く。そのほうが安心できるからだろう。
 
いまの自分の状態を規定できないというのは不安だし、言葉では表現できない状態を目指す、というのも難しいだろう。しかし、新しいことや面白いことをはじめようと思ったら、名前のない状態に身を置かなければならない。

結果としてなんらかの名前のある状態になってしまうことは仕方がないとしても、常に「名前のある状態」を求め、それになろう、というのは、「心の弱さ」のような気がする。
 
僕は小さい頃は小説家になりたいと思っていた。もちろん、小さい頃はそんなに世の中の職業を知らないから、自分の知っているわずかな職業のうち、「小説家」というのが自分に合っている、と思ったのだろう。


 
実際に大人になって、自分の状態をきちんと定義することはできないけれど、世の中に必要とされる仕事をして、それでちゃんと報酬を得ている。不安定だと感じることはないし、目的意識をもってきちんとやっているのだけれど、不思議だな、ということも思う。
 
肩書きを求めても仕方がないし、肩書きに安心している場合ではない。少なくとも、本質はそんなところにはないはずだ。

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