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読めば読むほど、面白くなる

先日、解剖学者の養老孟司が出られている動画で、面白いことをおっしゃっていた。人間は、視覚で入ってくる情報は、脳で処理される情報量の10分の1程度しかないらしい。脳で処理されている大半の情報は、入ってきた情報をベースにして、頭の中で自らが「解釈」しているものなのだ、と。

そういう発言に引っかかったということは、やはりそれまである程度は自分でも考えていたことなのだろう。要は、「情報」というのは、情報そのものが意味をもつのではなく、その情報を起点として「脳の中で共鳴する」ことが本質なのだろう、ということだ。

観光地へ観光旅行に行くとき、あまりガイドというのは必要ないのでは、と思っていたのだけれど、最近はガイドはあったほうがいいな、と感じることが多い。というのも、例えば城を見るにしても、予備知識がないと、どういう部分を面白がればいいのかわからないからだ。

そういう予備知識は関係なしに、とにかく見えたものを見えたままに捉えればいいんだ、という考え方もあるけれど、やはり吸収できる情報量には差がある。それは、予備知識の不足が、頭の中で「共鳴」を起こさないからだろう、と思う。

「ブラタモリ」という番組では、タモリが地方を歩きながら、地質学者とともにいろいろなものを見ていくが、学者の視点から世界を見ることで、なにげない風景からも膨大な知識を「受け取れる」というのが面白いポイントだろう。

本を読むといろいろなことを考えるが、本から得た知識そのものが思考を与えるのではなく、「本を読んだことによって、それまで自分の中に溜まっていた知識」が刺激されて、いろいろなことを考えるようになるんだろうな、と思う。つまり、読書の習慣がない人は、本を読んでもあまり共鳴するところがなく、思考できる範囲も非常に限定的、ということになる。

つまり、本というのは、広範囲に読めば読むほど、面白くなっていくということになる。「本を読むこと」によって得られる効用のひとつとして、「読書がより楽しくなる」ことだとは思わなかった。物事をわかればわかるほど、わからないことがどんどん増えていく、というのと少し似ているかもしれない。

本を読めば読むほど、知識が増えて、もっと面白くなるのだ。そのループにハマった人が、「読書好き」な人になるのだろう。逆に、そのループに入れない人は、読書とは縁がなくなっていく。



「共鳴する元となる情報」がないうちは、無理矢理にでも詰め込むしかないのかもしれない。例えば、ロシア語を知らない状態でロシア語の名作小説を読んでも、内容が1ミリも理解できないので、面白くないだろう。

ロシア語の本が読めるようになるには、ロシア語の文法や単語を覚えなければならない。それを習得するまでは、確かに苦痛を伴うかもしれないが、習得しないと、「知識の共鳴」を起こすことができない、と。

いま僕は1000日以上連続でnoteを更新しているが(確か現在で1150日ぐらいだと思う)、ある時点から、「noteはたぶん無限に更新できるな」という実感をもった。実際、ほぼ苦労することなく、無限にnoteの記事は生成できている。

それは、自分の中に無限にネタがあるからではなく、自分を取り巻く環境で起きることがすべて自分の中で「共鳴」して、文章を生成できる能力となった、ということなのだろう。

実際、特に面白い出来事が起きてなくても、それなりに面白い記事はいくらでも書けるな、と思っている。読書をすればするほど読書が面白くなるのと同様に、書けば書くほど書くことが面白くなる、ということだろうか。

1000日以上更新して得られたのは、そういう能力かもしれない。

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