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「自分」はどこまで自分ですか?

よく、仏教などの概念では、「無我」のがゴールだということが言われる。「無我の境地」などの言葉も、比較的一般的になっている。

しかし、「自分の意見をもつ」「自分の芯がある」というように、「自分」という存在をしっかり保つことが良い、ということを主張しているものも多い。

一見、それらとは相反するように思える「自分をなくす」ことがなぜ究極だと言えるのか、ということについて、少し考えてみたい。

「自分と自分以外の境界線」はいったいどこにあるだろう。ちょっと昔に「私以外、私じゃないの」という歌があったけれど、そこで定義する「私」とはなんなのだろうか?

https://www.youtube.com/watch?v=Ae6gQmhaMn4

もちろん、感覚的には「私」がどういうものであるかはわかるだろう。しかし、たとえば録音した自分の音声や映像が、「自分」に見えない、ということはよく言われる。

要は、「自分」として認識している自分と、カメラやマイクなどを通じて記録されている自分にギャップがあるので、「まるで自分じゃないようだ」と感じるのだ。

また、「自分から切り離された自分」についてはどうだろうか。美容院で切られた髪の毛や、爪切りで切った自分の爪は、そのままの状態で「自分だ」と思えるだろうか? 

自分だと思っているのに、ゴミ箱に気軽に捨てられるのはなぜだろうか?また、自分が吐いた唾は、さっきまで自分の口の中にあったものなのに、出した瞬間にそれを躊躇なく飲み込めるか。もっと言うと、自分の排泄物はどうだろうか? 

いったん外に出たら、たとえ「もともと自分のもの」であったのに、急に感覚が変わることがある。排泄物も、いま現在も、自分のおなかにある。が、お腹にある状態でそれを汚いと感じる人は少ない。

アメリカや中国は個人主義で、日本はどちらかという全体主義、と言われる。確かに、アメリカや中国は「個」を重んじ、組織単位でものを考える人は少ない。

これは、「自分」の輪がどれぐらい広さなのか、を考えると納得がいく。日本人は、アメリカ人や中国人と比較すると、自分の所属する組織を「自分だ」と考える傾向にあるようだ(もちろん、これは文化的な背景によるところが大きい)。「自分」という枠組みが、自分個人を超えて、会社や国家に広がっていくと、その輪の内側で起きることは「自分のこと」のように感じる。

中国は、政策によって国民を翻弄してきた歴史があるので、「国家や組織」を信用する人が少なくなっている。なので、中国の組織単位は「家族」であるとよく言われる。家族として強固な輪があるので、中に入るのは大変だが、いったん中に入ると、強烈な仲間意識が生まれるのだ。その「輪」の内側に入ったとみなされるからである。 

同様に、日本国内でも、都会は輪が狭い。田舎は比較的、輪が広かったりする。「村単位」でものを考えるところがあるからだ。 

さて、この「輪の概念」をどんどん広げていくとどうなるか。個人、家族、組織、国家の枠組みを超えて、人類、生物、地球、と広げていったらどうなるか。最終的には「森羅万象も自分のうち」ということになる。

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輪が極度に大きい人は、極端に言うと、「自分が死んでも、あなたが死んでも、かわらない」という状態になる。これが最終的な無我の境地なのだと思う。 

そこまでいくと、さすがに社会生活が成り立たないのだけれど……。お釈迦様ぐらいのレベルになると、おそらくそれぐらいの領域に達していると思われるが、普通の人はそこまでいく必要はもちろんない。

ただ、「自分」という「輪」はどのぐらいの大きさなのか? を知ることは大事かもしれない。他人に文句を言ってばかりの人は、自分の半径5センチぐらいしか「輪」がないのだろう。せめて、5メートル、10メートルぐらいは広げてもいいのでは、と思うのだ。

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