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おおきな選択は一回だけ --- 消耗ではなく研磨の先に

選択についてのお話

たなかともこさんの企画、「選択のあとに」に参加しています。

あまりこういった企画には参加しないのですが、いつものお世話になっているともこさんの企画とだということと、ちょうどいま自分が考えたいテーマだったということで、参加してみます。

とりあえず、普段と違う感じにしたいので、あえて敬体で書いてみます。あまり大した選択をした人生を送っていないので、お気に召すかどうか……。


人生は選択の連続

人生は選択の連続です。よく言われることですけれど、「何かを選ぶ」のも選択ですが、「何も選ばない」のも選択です。

何もしなくても、私たちは無自覚に何かを選択し続けているといえます。生きているだけで、日常的にあらゆるものを選択していますが、人生単位の「選択」となると、ある種の「決断」を伴う選択、ということになるでしょう。

不可逆的な選択、と定義できるかもしれません。

学校は、いつかは卒業し、進学しなければなりません。さらには、学生そのものも、永遠にあり続けられるわけもなく、いつかは社会に出なければなりません。

これは、いわばベルトコンベアで「出荷」されているような状態なわけで、ここでの「選択」とは、より「自分に合った」コンベアに乗り換えていくような作業です。

コンベアは途中で切れているので、途切れ目から伸びている次のコンベアを目掛けて、よいしょとジャンプしなければなりません。

しかし、最初から「ここでコンベア終わりです」というのは示されており、速度は等速なので、相応の準備はできます。

だから、いきなり、「え、ここで終わりなんですか?」というのは基本的にありません。時期がきたら、ファミレスのメニューを選ぶように、次は何をしようかな、と選ぶだけです。

それは「選択」とはいえるものの、「決断」を伴うか、と言われると、そうでもないような気もします。自分の意思で決断するというよりは、必ずその時点で乗り換えなければならないので、その時点での自分のベスト(だと思われる)先を選択しているにすぎません。

人生の決断とは、それまでの流れを断ち切り、後戻りのできないコンベアに乗り換える作業なのかもしれません。進学や就職は、むしろ「選ぶ」よりは「選ばれる」側であり、本人の意思はほとんどないともいえます。

そして、たいていの場合、その時点では、どれを選んでもそこまでの差はありません。


就職してからの転機、しかし

僕は2011年の4月に新卒で、愛知県にある、従業員2000名程度の中規模会社に就職しました。就職先はどうでもよく、どこに勤めても同じだと思っていました。

就職氷河期と呼ばれた年代でしたが、僕は運良く一番最初に面接を受けた会社から内定をもらい、ほとんどなにも考えることなく、ふたつ返事で承諾しました。

就職して2年後、2013年の5月から、中国の上海市に赴任しました。知り合い不在、上司不在、同僚不在、顧客不在、ビジネスパートナー不在というカオスな状況でした。

端的にいうと、新卒で勤め始めた会社の、中国現地法人を立ち上げて、そこの担当として、裸一貫で放り出されたのでした。入社三年目、25歳のことでした。

ただでさえ「ないないづくし」のなか、僕には知識も経験もなく、しかも中国語も話せませんでした。とりあえず手探りで会社を立ち上げ、見よう見まねで部下を面接して、現地で新規にビジネスを立ち上げるべく企業訪問と現地調査を重ねていました。

「中国に赴任してみないか」という声は、就職して一年ぐらいしてから、どこからともなく聞こえてきました。とりあえず新入社員の中では英語が一番できて、さらに現場作業でとりあえず文句も言わずに(壊れずに)やっているらしい。それだけの理由で、社長の目にとまったのがそもそものはじまりでした。

「とりあえず、行ってきて」みたいな軽いノリで、僕の中国駐在ははじまりました。

もちろん、僕の意思がゼロだったわけではなく、二度ほど、上司を通じて「本当にいいのか?」みたいな確認はありました。でも、僕はひと晩考えただけで、ほとんど即答に近い状態で返事をしました。

僕が考えた内容はとてもシンプルでした。「この機会を逃したら、もう二度とこんなチャンスは来ない」、というものでした。「行くのと行かないの、どっちがいいか」。それも考えました。

確かに、未知の世界に飛び込むのは怖かったし、失敗したらどうしようという不安もありました。

でも、決断というほどの決断は不要でした。そのときの僕は25歳で、「行く」ことのメリットが「行かない」ことのデメリットを圧倒的に上回っていたのです。

それに、たぶんこんな無謀なプロジェクトでは、失敗する確率のほうが高いだろうし、会社もそんな最初から成果を期待しないだろう、という打算というか、甘い考えもありました。

もちろん、出張ではなく「赴任」の初日、上海の浦東(プードン)空港に降り立ち、契約したばかりのマンションに移動したときのことは今でも覚えています。

視界が360度開けた、砂漠の真ん中にひとりで佇んでいるような気分でした。


中国での失敗、そして

若くて経験が少ないということは、意外とプラスに働きました。顧客先も、パートナー先も、驚くほど興味をもって話を聞いてくれました。

そして、若いのにたいしたものだ、という賛辞みたいなものを頂いたりもしました。起業家のような目で見られもしました。

しかし、僕は「会社の命令でここにきた」と思っていましたし、それは実際にそうでした。本物の起業家と圧倒的に違う点は、僕は中国現地法人の代表であると同時に、日本の本社社員でもある、という点でした。仮に中国での事業に失敗しても、僕には本社に自分の席がありました。

2年後、いろいろと調査を重ねた結果、中国事業からは撤退することになりました。ここにも、特に僕の意思はありませんでした。

むしろ僕は中国事業の持続を希望しましたが、オーナーの鶴の一声で撤退が決まりました。目の前が真っ暗になり、晴天の霹靂とはこのことか、と遠い意識で考えました。

終わるときは非常にあっけなくて、それまでビジネスプランの議論を熱く交わしていた日本側の上司や役員が、人が変わったようにきわめて迅速に撤退の事務作業に軸足を移していったのが印象的でした。

会社員というのは、とにかく決断や意思を持たない傀儡(くぐつ)にすぎないんだな、ということを失意とともに実感しました。

結果的に、僕が2年間活動をしてきた費用、約1800万円は、一夜にして水泡と帰しました。

しかし、僕は一介の社員にすぎず、会社の指示に従っていたまでで、特に責任を追求されることもありませんでした。それに正直なところ、自分自身も、そこまで責任は感じていませんでした。


責任を伴わない選択は選択ではない

「選択」というのは「決断」をともなう、というのを冒頭に書きましたが、おそらくもうひとつ必要なものがあります。

「責任」です。

僕は確かに中国事業で失敗しましたが、責任はとらされませんでした。「決断」、そして「責任」を担っていたのは、僕以外の誰かでした。自分を取り巻く環境が劇的に変化していましたが、それに対して、僕はなんら関与していなかったといえます。責任を伴わなかったからです。

帰国してから2年後、僕は転職をしました。日本に帰国してからの仕事は確かに大変で、重責を伴う仕事でしたが、僕は日本での仕事を続けた先の自分のスキルとキャリアに疑問を感じていました。

確かに帰国してからは、もっと実務的なところで仕事をしていましたが、連日、延々と出席しなければならない会議の準備と、現場の補填を、自分の精神と肉体、そしてなにより、人生の時間をすり減らしながら繰り返しているだけでした。

毎日が目が回るように忙しく、まったく休みもとれず、それでいて前進している実感もなく、何かを積み重ねている手応えもなく、粘性の薄い時間だけが、濁流のように過ぎていきました。

体重が見る見る落ちて、僕を見ても僕だとわからない同僚が出るほどになりました。

周りを見渡せば、そのように歳をとっていき、転身の機会を逸した先輩社員が大勢いました。僕はそのとき29歳で、自分がそのように、わけもわからず、自分の意思もなく、人生の時間をそこで浪費していくことに強い焦燥と、抵抗を感じていました。

そんな折、とある出会いがあり、僕は東京のベンチャー企業に転職しました。その時点で僕がわかっていたのは、「儲かっている会社」だということ、「高いスキルを要求される会社」だということ、そして「離職率が非常に高い」ということだけでした。

しかも、経営者の評判も、あまりよくはありませんでした。しかし、僕は決意して、そこに飛び込むことにしました。


おおきな選択は、たったの一回だけ

ベルトコンベアの先に切れ目があるわけではありませんでした。おそらく、そのままそのベルトコンベアに乗り続けていたら、それなりの苦労と引き換えに、それなりに居心地のいい地位や役職が与えられ、「定年退職」というコンベアの終着点まで運ばれていったのかもしれません。

学生時代と圧倒的に違う点は、「自らの意思でコンベアを乗り換えなければ、どこかに運ばれてしまう」という恐怖でした。さらに、僕が乗っていたのは「大学新卒」というコンベアであり、中途採用が大半を占める当時の僕の会社では、それなりに真面目にやっていれば出世が約束されていました。

どこか違うコンベアに乗り換えることは、それを「捨てる」ことを意味します。不可逆的で、後戻りのできない、人生ではじめての「責任」を伴う選択でした。

転職するとき、「一度は絶対にこの『新卒』の地位を捨てたことを後悔するだろう」ということを覚悟して辞めました。

僕が退職の意思を夏の終わりごろに伝えると、「とりあえず年末まではやってね」と言われ、僕はその年の12月31日の23時50分ごろまで働いていました。要するに、そういう会社でした。

転職して三年経ちますが、いまだに後悔はしていません。「一度は後悔するだろう」と覚悟したことが奏功したかはわかりませんが、10人足らずの小さな組織で、それなりに刺激的な毎日を楽しく送っています。

確かに高いスキルを要求され、離職率が高いのも本当でしたが、こういう厳しい環境も、自分には合っていると感じます。体と心を消耗するような前職と比べ、より鋭利に研磨しているかのような充実感がここにあります。

自分の「責任」で決断したことであれば、何が起きても受け入れられるような気がします。今思えば、「新卒カードを失う」なんてのが、いかに些末で矮小なことか、といまなら思えます。

日々いろんな選択をしているといえど、僕はこう断言できます。

自分がおおきな「選択」をしたのは、これまでの人生でたったの一回であると。

(おわり)

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