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ニヒリズムはいつ卒業したのか?

ニヒリズムという言葉がある。普遍的な価値や真理は存在しない、という考え方だ。人生に意味はない、などという退廃的に見える考え方もここに含まれる。

ニヒリズムの思想家としてはニーチェが有名だけれど、ニーチェを読んだことがなくとも、こういう感覚には誰しもが一度は囚われるのではないだろうか。

たぶん、いわゆる「中二病」と言われる時期にこういう考え方になる人が多いのではないかと思う。思春期で、それなりに人生の大変さがわかってくる時期だ。

思い返してみると、自分もそういったことをこの時期に考えていたような気がする。将来の不安や、勉強のストレスなどがあいまって、必死に毎日生きているけれど、こんな毎日を送ったところでいったい何になるんだろう、と。こんなに苦労しても、最後にはどうせみんな死ぬじゃないか、みたいな。

小学生の頃はもっと自分の欲望に忠実に生きていたというか、「その日が楽しいか楽しくないか」だけで人生を判断していたような気がする。中学生ぐらいになるともうちょっと先まで見通せる(ような気になる)ので、そのような感覚に囚われるのだろうか。

ちょうど会社員というか、サラリーマンという存在が少しネガティブに感じはじめるのもこの時期のような気がしている。世の中のサラリーマンがしょうもない存在に感じ、自分も将来ああなるのか、と思ってぞっとする、みたいな。

幸いにも、自分の場合も父はサラリーマンではあったが、独特な考え方をする人なので、あんまりこういった「サラリーマンになりたくない」的な考えに陥ることはなかった。しかし、自分はもっと非凡な存在でありたいというか、できればサラリーマンにはなりたくないな、みたいな感覚があったような記憶がある。

「平凡から離脱したい」という欲求はあるけれど、結局は平凡の中にしか収まれないというジレンマ。ある意味、世界の広さがわかってきて、自分の限界も同時にわかり、それに対する無力感との付き合いがはじまる瞬間である。

当然ながら、そういった感覚は時とともに薄れていく。さすがに30代になると、そんな感覚は全くない。サラリーマンがしょうもない、と思うことはない。表面的に見えている以上にダイナミックだし、いろんなことを考えて、いろんなことをやっている。

小さい頃はミュージシャンや作家、映画監督などのクリエイティブな仕事をやる人だけがクリエイティブなことを許されている人たちだと思っていたが、世の中は会社員によって支えられている。スカイツリーだって、瀬戸大橋だって、作ったのは会社員だ。

映画やゲームだって、クリエイターの人たちが発想したものを形にして、流通させるのは会社員だ。むしろ表面的に見えない分、奥深いことをやっていて、思っている以上にダイナミックなのである。

会社員というのは守秘義務があるので、自分のやっていることを大っぴらには言えない。僕も会社ではいろいろなことをやっているのだが、もちろんここには何も書いていない。

会社員は平凡なのではなく、何も語れないから、平凡に見えるだけなのだろう。

ニヒリズムの話に戻す。ニヒリズムというのは、要は「不安」と「無力感」でいじけているだけなのかもしれない。大人になって、自分のできることと、やるべきことが見えてくると、そんなものにいじけている暇はなくなる。

30代ぐらいになってニヒリズムになっている人がいたら、結構やばいと思う。思春期を超えたら、いつの間にか、卒業していくのだ。いつ卒業したのかは覚えていないが。

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