見出し画像

新鮮さと老害について

かつては聡明で頭の切れる人だった人が、晩年になって「老害化」する現象が多々見られる。

晩節を汚すと言う言葉があるが、まさにその言葉がふさわしい。はじめから汚れていれば特に落胆もないが、昔の栄光があるだけに悲しい、ということもある。あんなに聡明な人だったのになぜ、と思ってしまうのだ。
 
Twitterでフォローしている人が、35歳を過ぎると体から細胞が死んでいく音がする、と言っていた。本当にそういう音がするかはわからないが、感覚としてそういうものがあるのだろう。音楽をやっている人なので、体感したことを音に置き換える能力があるのかもしれない。
 
老化というのは一方通行の現象だから、実際になってみないとわからない。たとえば、自分が70歳や80歳になったときの事なんて想像もできない。

身体的な衰えは何となくイメージできるが、その時どういう気持ちになっているかと言う感情の部分や、思考がどの程度衰えているのかなんていうのは全く想像もできない。

僕は今32歳だが、思考能力の衰えは今のところそんなに実感していない。よく20歳前後が記憶力のピークで、それ以降は衰える一方だとはよく聞くが、そういうのを実感したこともない。

20歳前後においても僕の記憶力は大したことがなかったので、あまり実感するほどもなかった、ということだろうか。
 
ただひとつ言えることは、新しく出てきたものに対しての関心が少し減ってきた気がする。

関心がないというか、新鮮味がない。昔からあるものの焼き直しに見えてしまう。例えば、新しいSNSサービスが出てきたとしても、今からそれをやろうかな、という気持ちにはあまりならない。
 
Twitterが登場したのは10年ちょっと前だが、その時は大学生だったし、全く新しい、面白いものが出てきたなと言う感じで、楽しく始めることができた。

しかし今はいろんなSNSが乱立していてよくわからないし、新しいのをはじめてみようという動機もない。Instagramの時点で、アカウントは持っているものの、全くやっていない。だからその周辺の文化もよくわからない。
 
新しいものに対するインプットがなくなると、自分の知っているものだけで物事を判断するようになり、それが「こだわり」となってしまう。それが長期間にわたり醸成されると、最終的に老害化してしまう、という仕組みなのだろうか。

となると、記憶力や処理能力の問題だけではなく、「インプットをしているか」というのがポイントとなりそうだ。
 
確かに、老害化してしまった人を見ると、その時起きている現状や新しい情報を受け入れない姿勢を示している人が多いような気がする。気持ち的に受け入れないと言うのか、理解する能力がなくなっているのかはわからないが、とにかく新しい情報や状況を受け入れようとしない。

過去にあったものの焼き直しや、劣化コピーのように見えてしまうのだろう。もちろん、そういう側面もある。しかし、そうでない要素を併せ持っている場合だってあるのだ。

新しいものに迎合する必要は別にないと思う。自分の中に「判断する軸」があっても、問題はない。

しかし、常に新しいものに触れる気持ちがないと、自分の中にあるものだけで物事を判断するようになってしまい、能力が衰えて老害化してしまうのではないだろうか。なかなかこれを気をつけていくっていうのも難しい注文だけれど。
 
ひとつ、これを防ぐ方法があるとしたら、幅広い年代、特に若い友人を作るということが考えられる。若い友人であれば、その時の流行を、最新のものとして、呼吸するように取り込んでいる。そういう人と対等な意味で友達になれれば、老害化が防げるかもしれない。
 
年を取っても、いろんな視点で物事を見ていられるようにしたいものです。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。