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誰もあなたに関心ないですよ

たまにすごく自意識過剰と思われる人を見かけることがある。周囲に「どう思われるんだろうか」ということを過剰に気にしていて、びくびくしている。

着るものや振る舞い、言動について、常に細心の注意を払っている。「そんなの誰も見てないやろ」と心の中で突っ込むのだが、本人はそうは考えられないらしい。

会社や友人との食事など、よく接する人たちに囲まれている環境でそういったものを気にするのであればまだわかるのだが、街中など、自分を知っている人が全くいない環境でも過剰に何かを気にしているケースもある。少しこれについて考えてみたい。



自分のことを知っている人が誰一人いない街に行ったとする。そこで自分がどんな服を着て、どんな振る舞いをしていようが、究極的には誰も自分のことを知らないため、なんでもいい、といえるだろう。自分の今後の人生に影響を及ぼさない、ということである。

たとえば街中を変な格好をして歩いている人がいたとして、気になるのはほんの数秒のことであり、目を離せばすぐに忘れてしまうものだろう(東京を歩いていると、定期的にものすごく奇抜な格好をした人を見かけるが、たいていは見たそばから忘れてしまう)。しかし、なぜ私たちはそれを気にしてしまうのだろうか。

ひとつは、「自分がそれを見ているから」というものである。自分自身が自分自身を「こうあるべき」と定義しており、そこから外れたことをしないように監視している、というものだ。

結構、人間にはこのある種のメタ認知機能というか、自分が自分自身を監視するという強い作用があるように思う。究極的には「お天道様が見てる」というような概念のことだ。誰か特定の人に見られていなくても、自分で自分を監視する機能があるのだ。なので、「それは自意識過剰やろ」と思えるような場面では、その行動を制限しているのは自分自身だと言える。

最近、コンビニなどではセルフレジが使えるところが増えたが、不正防止のためにカメラが設置されている。面白いなと感じるのは、おそらくカメラは従来からずっと設置されているのだが、そのカメラを映すディスプレイがレジの画面横に表示されていることだ。つまり、カメラで撮影されている自分自身がディスプレイに映っているのである。

おそらく、そういった監視カメラをいちいち遠隔で監視することは物理的に難しいので、「カメラに映ってるぞ」ということを客に示すことで、客自身に客を監視させ、不正を防止しているのだろう。シンプルながら効果のありそうな施策である。

大人になっても自意識過剰なんじゃないか、と思える人は、学生時代にいじめられた経験の人も多いのではないかと思っている。いじめられる人は、普通から逸脱した部分を執拗にいじられることが多い。

ファッションや振る舞いからの逸脱は、「ダサい」だったり、「痛い」などと表現されることがある。何がダサくて何がダサくないかの明確な定義はなく、時代とともに変わっていく。仲間内で「こうあるべき」という共通認識があり、そこから逸脱すると「ダサい」とこきおろされるのだろう。

実際は、そんなものなくてもいじめられるときはいじめられるのだが、目立つ要素があるとよりそれは顕著になる。なので、「自分で自分自身を観察する」ということを強制されるのだろう。「深淵を覗くとき、深淵もまたお前をのぞいているのだ」という言葉があるが、まさにそれである。

他人からの目よりも自分からの目が強い人は、少しこういったことを意識してみるといいのでは、と思う。大人になると、誰もあなたに関心を持ってないですよ、と。

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