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音声・動画に慣れてしまったら

話し言葉と書き言葉について考える。

最近、YouTubeで動画を見ることが一般化してきて、音声メディアも増えてきた。僕はどちらかというとテレビはあまり見ずに育ち、本やネットで文字を読むことが主流だったので、「耳からインプットする」ことにそこまで馴染みがない。

文字メディアだと必要な情報を参照するスピードが早い反面、適宜「読み飛ばし」してしまったりするので、わからない箇所を読み飛ばしたりしてしまったりする面はある。以前も書いたかもしれないが、「読み飛ばし」を防止するため、僕はこうやって文章を書いてネットに載せるときは必ず一度は「音声読み上げ」機能で聞き返して推敲するようにしている。

音声に変換することにより、目で文字を追うよりも客観性も担保できる。すごく便利な時代に生きているもんだな、と思う。

音声メディアと文字メディアは全然性質の違うものだと思っている。文字メディアをそのまま読み上げても音声メディアにはならない。また、音声メディアもそのまま文字にするだけでは文字メディアにはならない。

洋画で、英語の字幕をつけるときにも同様の悩みがあると思うのだけれど、英語でしゃべっているセリフをそのまま翻訳すると冗長すぎるので、適宜意訳をしたりする。音声メディアも、文字メディアで書いていることをそのまま音声にすると冗長すぎるのだろう。

一方で、「書くよりも話すのが得意」という人も多く、そういう人はもともと音声メディアに馴染みがあるのかもしれない。一方で、多少冗長でも物事を正確に伝えるためには文字も重要で、「読む訓練」というのも必要なのかな、と思った。 

普段僕はテレビの民放を全く見ないのだけれど、近くの日帰り温泉に行った際にサウナに入って、そこでやっている番組を見ていた。内容は、芸人が街歩きをして100万円を使うという内容だったのだけれど、花屋に入って、「この店で一番高い花ってありますか?」と質問していた。

それを聞いて、店主は「これが一番高い花です」と言って指さしていたのだけれど、これは日本語として明らかにおかしい。「一番高い花」というのは、どんな店でもあるに決まっている(店の花の価格がすべて同じだったら「一番高い花」という表現は適切ではないかもしれないが、それでも存在はする)。

だから正確には「この店で一番高い花はどれですか?」になるはずなのだが、「話し言葉」だと不正確でも伝わってしまうので、あまり気にしている人はいないかもしれない。 

「何をそんなに細かいことを」と思うかもしれないが、こういった破綻したロジックで話す人の言う内容は、少なくとも僕は信用することができない。聞いた瞬間に「気持ち悪さ」を感じるものだからだ。

ネットで音声メディアが普及して、「文字メディア」に親しんでいない人が増えると、こういう部分でも誤解が生まれるのかもしれない。

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