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社会はバーベキューみたいなもん

プロ格闘ゲーマーの梅原大吾が「どういう人間が業界を背負って立つべきなのか」ということについて語っていたらしい。らしい、というのは、それを語っている動画を見たわけではなく、そう言っている梅原について語っている別の人の動画を見たからである(ややこしい)。

曰く、格ゲーの実力があるとか、コミュ力があるとか、そういうことよりも第一に「コミュニティ愛を持っているやつ」がなるべきだ、というのだ。少しそれについて考えてみる。

プロ格闘ゲームといってもいろいろなタイトルがあるが、梅原が主戦場としているのは「ストリートファイターシリーズ」である。

同シリーズは、ほかのシリーズと比較しても、最近は新参プレイヤーに優しいらしい。特に最新作である「6」は、「モダンモード」というコマンド入力が容易なモードが用意されており、新規が参入しやすい工夫がされているようだ。そうやってやってきた「新しくはじめたい」という人に対して、ベテラン勢の目線はかなり優しいらしい。

というのも、格ゲー業界は結構長い「冬の時代」があり、新しいプレイヤーが参入してこない時期が長かったため、衰退してしまった経緯があるからだそうだ。

業界が発展するためにはただ強いプレイヤーがいるだけではダメで、新しく参入してくる層、それを見て楽しむ層など、さまざまな人がいて成り立っているのだな、とあらためて思った。

「コミュニティ愛」というとなかなか抽象的だけれど、少なからず集団を維持するためには必要なものだよな、と思う。

わかりやすいものだと、たとえば商店街とかだろうか。商店街を愛する気持ちがあれば、自分の店舗だけでなく、商店街をどう発展させていくか、ということをベースにものを考えるだろう。そういう人がコミュニティを背負って立つ、というのはなんか納得である。
 
「社会に対する愛」はどうだろう。あなたは日本社会を愛しているだろうか? 外国に行ったりして、わりと日常的に犯罪が発生するようなところに住んでから日本に帰ると、治安の良さに感動したりする。外国人がたくさん移民として入ってきたとき、反発することもあるかもしれない。

しかし、それは日本というコミュニティを愛しているから、と言えないだろうか。自覚していないケースも多いだろうし、必ずしもそうは言えない場合もあるかもしれないけれど。

昔だと「会社に対する愛」を持っていた人は多かっただろう。会社に対する愛を持っている人が多かった時代は、日本が元気だった頃のような気がする。もちろんそういった感情は過剰に持つ必要はないけれど、ある程度は必要なのではないだろうか。

そうやって考えていくと、社会ってみんなでバーベキューをやっているようなものだな、と思った。バーベキューを集団でやるとき、全員がなんらかの役割をもって、それぞれが考えて動かなければならない。

食材を買ってくる人、道具をそろえる人、焼く人、配る人。もちろん場所を確保する人や、車を出す人、予定を調整する人、予算をとってくる人も必要だ。ゴミを集めて、捨てる人だっている。

コミュニティのことを考えずにみんな好き勝手にやって、たとえば「おれは高級な肉しか焼かないし、食べない!」みたいな人ばかりになると、やっぱりうまくいかない。

「コミュニティ愛」というと抽象的でふわっとしているけれど、そういう気持ちが根底にないと人がついてこない、ということなのかな、と思った。実際の実務的な能力は、リーダーがやる必要は必ずしもないわけで。

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