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世界観という言葉が好きではなかった

アニメや漫画、映画、音楽に対する感想として、「世界観が好きだ」と言う感想がある。僕はこの感想があまり好きではなかった。言いたいことはわかるし、自分もたまに言ってしまうことがあるのだが、もう少し細かく言語化できるような気がする。

僕が考える代表的な思考停止コメントの「この作品は考えさせられる」という感想と同様に、何も考えていない感想のように思えてしまう。
 
しかし最近、なんとなく「世界観」というものが肌感覚でわかるようになった。現実世界に生きている人も、さまざまな世界観の人がいる。ネガティブな人は、どこまでもネガティブに世界を見ている。世界全体を敵であるかのようにみなしている人もいる。価値観や感受性、世界に対する接し方を総称したものが、「世界観」というものなのだろう。

そういう人に対して、つい「世界はそんなにネガティブなものではないよ」ということを教えてあげたくなってしまうのだけれど、それこそ「世界観の押し付け」になってしまう。そのあたりのさじ加減はむずかしい。
 
僕にとって、高学歴で年収が高くて、毎週合コン三昧みたいな人の生活はあまり想像ができなくて、フィクションの世界のように感じてしまうのだけれど、そういう人は現実に実在する。そういう人にとっては、年収とか容姿とか学歴とかが人を判断する基準になる。

僕はそういった世界観をあまり持っていないが、それはその人にとっての世界観なので、そういう人と会話をするときは、相手がそういう世界観を持った人間だ、ということを理解した上で応対する必要がある。自分から見れば相手は「枠の外」の人間だが、それは相手から見た場合も同様なのだ。

イスラム過激派の人の世界観は、神の価値観が全てなので、仏教徒やキリスト教徒は不信仰者ということになり、罪人扱いする。

イスラム国によるテロで日本人が殺害された事件があったのだが、そこで殺されてしまった日本人は、日本人であることを主張すれば殺されないだろうと思い、英語で自分が日本人だということを主張したらしいのだが、イスラム過激派からとってみればそれはイスラムを信仰していないと言うことを意味するので、逆に殺されてしまったというわけだ。

宗教の過激派の場合は極端な例だが、これは相手と世界観を共有していない、相手の世界観を理解していないがために起きたことだろう。
 
外国の人と仕事をしていてもこういったことがしばしば起きる。とにかく約束を守らないし、ルーズすぎると感じることが多い。しかしこういう人たちと日常的に会話をしていると、相手からのこちら側の見え方というのもわかってくる。なんで日本人はそんなに細かいんだ、と。

相手の世界観が見えてくると、こちら側があまりにも細かすぎてせっかちなのかもしれない、と感じるようになる。
 
出張なんかで現地の国に行ってみると、向こうには向こうの時間が流れていて、日本の常識は通用しない。こういう相違も、世界観の違いに起因するものなのだろう。

ネガティブな人、後ろ向きな人、落ち込んでいる人、悩んでいる人を見かけると、つい声をかけて手助けをしたくなる。しかし、相手には相手の価値観があり、その人の世界観の中で生きている。これを相手に言うことで、自分の世界観を押し付ける結果にはならないだろうか? と感じることも多い。
 
自分には他人に見えないものが見えているし、他人は自分の見てないものを見ている。それが基本だ。そういう基本を踏まえないと、他人とわかりあうことなどできないだろう。

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