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「忙しさ」は自分で決める

仕事をしていると、暇な時期と忙しい時期がある。それは会社や部署によって変わるし、同じ仕事でも時期によって忙しさは変わってくる。いまの僕は、どちらかというと「暇な時期」に該当するような気がしている。

しかし半年ぐらい前は非常に忙しかったので、ある意味バランスは取れている。暇な時期と忙しい時期、どちらの方が大変かということをたまに考えたりする。今は暇な時期に属しているからかもしれないが、暇な時期だからといって楽なこともないな、と思う。

「暇」だと、なんとなく自分が役に立っていない、たいしたことをやっていないような気分になるからだ(実際には、やっている仕事の性質上、動けることが少なく、閑散期というだけなのだが)。そういう状態の時は、社内でも忙しい人のことが少し羨ましくなったりする。

本当に多忙な時期は、そういうこと自体を考える余裕がないため、そもそも考えない。目の前のタスクを処理するだけで精一杯である。そして当たり前の話だが、もちろん忙しいほうが個人としては消耗する。要は、いまの自分の環境にないものねだりをしているだけなのである。

忙しいときは、自分の都合で動けないことが多い。つまり誰かの都合で動かされている状態である。ポジティブに捉えると他人から頼られているとも言えるが、ネガティブに捉えると「押し付けられている」ともとれる。

人生で一番忙しかったのは、とあるセンターの管理者をしていたときだが、とにかく現場で起きるあらゆるトラブルを処理する役割だった。本当に、一時間で電話が鳴らない時はないほどで、夜中でもお構いなしに鳴っていた。そういう立場だからと言えばそうなのかもしれないのだが、当然ながらそんな生活は長くは持たなかった。

仕事というのは他人からやらされることばかりでなく、自分のやれる事は何か、自分のやるべき事は何か、自分のやりたい事は何か、そういったものを常に考え続けることが大事なのかなと思っている。

本当に新しいものは、忙しい人からでなく、ある程度時間に余裕のある人からでないと生まれない。新規に「何か」をやるときは、動き出しは「何もない」わけだから、結構暇なものだ。忙しくなってくると、そういったことを考える余裕もなくなるわけだから、いまのうちに考えておこう、ということである。

そういうときに参考になるのが「研究者の生活」である。研究者とひとくくりに言っても様々な組織があり、人によって働き方はだいぶ違う。

とんでもなく忙しく、睡眠時間を削って研究に没頭する人もいるが、そういった目的もなく、サボろうと思えば、永遠にサボることができる環境もあるらしい。ただ給料を貰えればいいと思っている人は、できるだけ手を抜くと思う。つまり、人によって違うというか、「忙しさは自分で決めている」ということである。研究者という究極の頭脳労働者は、どうしてもそういう形になるのだろう。

忙しさは「自分で決める」のが一番のような気がする。人に頼られているということは、むしろ主体的にうごけていないだけ、押し付けられているだけ、という可能性が高い。

むしろ自分がやりたいことがあり、他人や組織を利用して実現させていくという視点に立てば、人に頼られるのではなくて、むしろ人を頼ってやりたいことを実現するというところに充実を見いだすことができるだろう。

なので、単純に忙しい・忙しくないと言う視点で物事を捉えるということ自体があまり良くないのかもしれない。もっと主体的に考えて仕事をしよう。

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