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努力だけでは勝てない「才能の壁」はあるのか?

将棋の渡辺明がかつて発言していた内容で、興味深いものがあった。曰く、ずっと将棋で弱い人は「努力してないから弱い」んだと思っていた、と。

しかし、自分の息子に将棋を教えてみたところ、自分が昔簡単にできたことができなくて驚いたらしい。そこではじめて、自分に将棋の才能があったことがわかった、というのだ。

それまで、子どもに将棋を教える機会がなかったため、わからなかったらしい。もちろん努力も重ねたが、そもそも将棋の才能があったから強かったのだ、と。

将棋のようにルールが厳格に決まっており、同じ戦力で戦う頭脳戦の場合は特に個人の「才能」「センス」の差が出やすいのだろうか。しかし、これは将棋の世界においては明らかに残酷な話ではある。才能があるから強いのはいいのだが、自分よりも才能がある者が出てきたら、その人には勝てない道理になってしまう。

そして、それは常に将棋界で起きている現象である。古くは大山康晴、中原誠、羽生善治……と、その時代を代表する「大棋士」がいるが、その人が現役で最強のあいだは、ほぼ一強の状態になってしまう。

現実世界の多くの分野ではひとつの能力だけで優劣が決まることは少なく、あらゆる能力の総合力で決まる。記憶力がなかったり、注意欠陥だったりしても、それを補う形でいろんなリカバリーの方法はある。

形式はある程度決まっているのだが、それをどう伸ばしていいのかわからない、というジャンルもあるだろう。以前、あるお笑い芸人が、どういうふうに自分の能力を伸ばしていったらいいのか検討もつかない、というようなことを言っていたのだけれど、そうだな、と思う。

「お笑い」というのは、常識を超えたある種の狂気の世界のようなところがあるが、突き詰めても笑えなければ意味がない。ギャグ漫画家なども似たような悩みを抱えているらしい。

確かに、お笑い芸人に必要な能力って全くわからないし、仮に才能があったとしても、それをどう伸ばしていくのか、みたいなことは検討もつかない。そういう意味では、将棋のほうがある程度鍛え方がイメージできそうかな、という気はする。お笑い芸人のほうがより「才能を求められる勝負」ということになるのだろうか。

ルールが整備されているジャンルのほうが才能の有無が実力に反映されやすいけれど、それをどう鍛えていくか、みたいな部分も整備されているのかな、と。

そういえばこうして日々書いている自分のnoteだが、自分には全く書けないジャンルってあるよな、と思っている。よく「この人の文章の表現がいいな」みたいな感じで褒められている他の人の文章を見たりするのだが、自分の場合はそんな感じで褒められることってほぼないな、と。

おそらく、ジャンルが違うのだろうと思っている。自分は自分に書けることしか書けないので、できることをやっていきます。将棋も、いつまで経っても三級のままで初段すら見えないけれど、それなりにやっていきます。

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