見出し画像

「お金を払う」ことは難しい

仕事をしていると、「他人に仕事を発注すること」の大変さを思い知ることになる。どんな商売でも何かをやるには、何かを仕入れなければならない。

たとえばコンビニのような小売業は、バイトを雇ったり、商品を仕入れたり、「人とモノにお金を払う」ことで、商売の原資を用意するのが基本だ。一般消費者として考えると、たとえばコンビニで売っているものを「買う」のはなんら難しいことではないのだが、店側は常に店員が対応できるように人員を確保しなければならないし、在庫を切らさないように商品を確保しなければならない。

店長は、単にお金を払って命令をしていればいいわけではなく、ちゃんとそれらが機能しているかを監督しなければならない。お金を払っている立場なのに。

ときどき、仕事を受注する以上に、仕事を発注するほうが大変なんじゃないか、と思うときがある。成果物の品質をチェックすることはもちろん、ちゃんと進捗通りに進行しているか、常にチェックしなければならない。

そもそも、プロジェクトがスタートするときには、方向性のすり合わせをちゃんとしなければならない。「仕事を発注する」というのはすごく大変なことだな、と気づく。

なぜ「仕事を発注すること」「お金を払うこと」は大変なのか。それは、「お金を払うことの本質は、「人を働かせること」だからでは、と思う。相手がちゃんと働いてくれるか、監督しなければならないのだが、お金は魔法ではないので、ただ単にお金を払ったからといって相手がちゃんと働いてくれるとは限らない。

それは、お金が価値のすべてじゃないということもあるし、お金の量、つまり金額によって相手の「やる気」も変動する、ということがあるだろう。「誰かが働く」ことで世の中は回っているのだが、その働く原動力は「お金」という影も形もないもの、という不思議なことが起きている。

よく「自分は金のためだけに働いている」と豪語する人がいるが、言い換えればお金を払えばちゃんと働いてくれる人なわけで、経営者目線でみればとてもありがたい存在である。いろいろ威勢のいいことを言いながら働かない社員よりはよっぽど頼りになることだろう。

特に最近は電子通貨で「モノ」として見えないお金の形が増えているので、地球を観察している宇宙人からしてみれば、地球人はなんの対価も受け取らずに働く、仲間思いの勤勉な生物だ、と見えることだろう。

では、なぜ一般消費者としてコンビニやスーパーで買い物をするのが簡単なのかというと、すでに労働がなんらかの形で「結晶化」したものだからでは、と思う。

たとえば、スーパーで売っている野菜は、いろんな人がいろんな人に「お金を払って他人を働かせた」結果、野菜という形に昇華したものである。それをお店の店頭にまで並ばせるところまでお膳立てしてあり、あとは店員さんをちょっとだけ「働かせ」て、商品をこちらに引き渡してもらう、というだけの状態にしてあるのだ。

そういうすごく簡単な状態まで用意してもらっているので、ちょっとお金を払うだけで商品を手にすることができるのだろう。ありがたいことである。しかしその裏では、膨大な人々が膨大な人を「お金で働かせ」てその状態まで持っていっている。

しかし、一般消費者というのはそういった「モノを作る」というところにはほとんど関われないので、店頭からある日突然買っていたモノが消えても、ほとんど何もすることはできない。せいぜい、店員に文句を言うぐらいである。お膳立てしてもらっている以上、ほとんどコントロールできない、というところだろうか。

「お金を払うことの奥深さ」を知ると、たとえ何十億円もお金をもっていたとしても、できることはごく限られている、ということに気づくだろう。

あなたはどう思いますか?


サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。