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多様性とは、そもそも不平等だと知ること

昔、物流倉庫で管理職をしていたときに、体重が140キロある高卒の男子が配属されてきたことがある。

僕が働いていた当時、パートやその他のスタッフも含めると200人近くがその職場で働いていたのだけれど、毎年5~6名は高卒採用の人員がやってきていた。人事が何を思って140キロの人を採用したのかはわからないのだが、とにかくやってきてしまったので、いろいろと環境整備をする必要があった。
 
仕事は庫内作業で、基本的には立ち仕事である。しかし、その子は「立ってやる仕事はできない」と言った。体重が重すぎるので、足に負担がかかりすぎるのだという。

とはいえ、そんなわがままを言ってもはじまらないということで、とりあえずみんなと同じ立ち仕事をやってもらったのだが、しばらくすると、足が悲鳴をあげている、と根を上げた。後日、病院に行ったら、このままではそのうち疲労骨折してしまう、ということだった。

こちらはただ普通に働かせているだけなのに労災になってしまうということで、非常に困った。
 
前述の通り、他には同じ作業をしている人が200人ぐらいおり、特例で彼だけ椅子などに座らせてやってもらうと、他のスタッフもわがままを言い出すおそれがある。そこで、いったんは現場ではなく事務所で働いてもらうことにした。

しかし、あまり本人はデスクワークに適性がなく、半年ほどでやめていってしまったように記憶している。まあ、どうしようもないといえばどうしようもないが、どうすればよかったんだろうな、という案件ではある。


 
多様性ダイバーシティという考え方が一般的になって久しいが、これもまた一種の多様性をどう許容するか、という問題なんだろうなと思う。

肥満すぎるのであればシンプルに「痩せろ」ですませればいいのかもしれないけれど、最近流行りの性的マイノリティや、外国人、ハンディキャップの人に対してはどう対処したらいいのか、という問題は残る。
 
もし、全員がそれぞれ全く違うのであれば、むしろ均一である。人種、性自認、年齢、ハンディキャップの有無まで、ぜんぶゴッタ煮になっていたら、多様性は確保できる。ある意味、属性をバラけさせたポケモンのパーティのようなものだ。

それがバランスよくまとまっていたら、ある意味理想ではあるが、そんなキレイに多様性を確保できている組織はそこまで多くはないだろう。
 
しかし、多様性を確保すると、完全に同種の人間を集めたときと比較すると効率は悪くなる。統一したマニュアルで、効率的に動いてもらうことが難しい。ある意味、全員がバラバラの動きをすることになるからだ。部署ごとのリソースの配分も非常に難易度が高くなるだろう。

やはり、同じ装備をしている兵隊みたいな人たちを大量にそろえたほうが、組織としての効率はいいだろう。もちろん、そういう組織は、方向転換するのに時間がかかったりするので、環境が劇的に変わったりしたときは難しいかもしれないが。
 
多様性を受け入れるためには、「自分と他人は違うと知る」ことを、「全員が」する必要があるんじゃないか、と思う。みんな能力や資質が違っていて、そもそも不平等だと知る、ということ。

たとえば、隣の人が一日4時間しか働いていないのに、自分の倍の給料をもらっていたとしても、それを妬まない、ということだ。もちろん、そんなことは相当難しいし、理想論にすぎないかもしれないが、突き詰めて考えていくとそうなる。


 
ひとつの単一の組織ではなく、プロ同士がそれぞれの専門をもって動くプロジェクトみたいなものだと、そういった「不公正さ」や「不平等さ」はあまり露見しない。究極的には、組織というのはそういうのが基本になっていくのかな、という気はする。
 
多様性を実現するのはなかなか難しいですね。まずは、自分からそういった心づもりをしておく、ということかな……。

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