見出し画像

書くことがない

文章なんて無限にかけると普段から公言? している僕ではあるけれど、何も書くことがない日がある。

例えば今日だ。特に何も書くことがないので、書くことがないということについて書いてみようと思う。
 
平日の朝は流れるようにルーティンが決まっているので、ブログを書く時間は決まっている。一方で休日はルーティンが乱れがちになるから、書く内容をしっかり固めてから書こう、といった感じになる。

だけれど、ただぼーっとしてるだけで思考が固まるなんていう都合のいいことにはならないので、なかなか書きはじめることができない。大体夕方ぐらいに、そろそろ何か書こうかなと重い腰をあげることになる(ちなみに、僕は普段からブログ記事は3本ストックするようにしているので、何時に書いても支障はない)。

何かものを書くためにはネタが必要だ。だが、何かを見てすぐにそれをネタにすると、賞味期限が非常に短いネタになってしまう。

特に、時事ネタなんて扱おうものなら、多分賞味期限は3日ぐらいしかもたないだろう。一年後に読み返したら、あまりにもくだらなくて何なんだこれ、と思うに違いない。

だから、インプットは日々しているものの、実際にそれを活用する場面はかなり先ということになる。要するに、自分の中で時間をかけてその事象を消化する必要があるのだ。
 
何も思い付かない時は、とにかくぼーっとするのも悪くない。

試しにアラームを10分にセットして、10分間なにもせずにぼーっとしてみると良い。10分が思った以上に長いと感じるはずだ。10分間ぼーっとするだけで、こんなにたくさんの物事が考えられるのか、と感動すらするかもしれない。

日常生活を送っていると、どうでもいい細かい刺激がたくさん自分に降り注ぐせいで、10分以上持続して何かについて考えるということはそんなにないはずだ。意識的にそういう時間をつくる、というのもひとつの手だろう。
 
究極的には、白い壁の防音室に閉じこもったりしてみるのも良い。人間は刺激がなくなると、自ら刺激を生み出すという。

そういった極端に刺激の少ない世界に閉じこもってると、だんだん幻覚を見始めるのだそうだ。突然、龍が目の前に現れて、戦ったりできる。

もっとも、そういう状態になってなお、理路整然とした面白い文章が書けるかといえば、それはまた別の問題ではあるのだが……。

書くことがない、というのはつまり、何も面白いことが思いつかない、という状態であるともいえる。面白くなくてもよいのであれば、たぶんなんでも書ける。過去に書いたことを焼き直してもいいだろう。
 
世の中に対して腹を立てていたり、言ってやりたいことがあると筆が進む。であれば、何も書くことがない、というの平和な証と言い換えることもできよう。

究極的に平和で、問題が何もない世界では、おそらく書くべきことなんてなにひとつ浮かばないに違いない。書くことがない日を祝福する、というのも、心の余裕という点では好ましいことなのかもしれない。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。