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自然はコントロールできるのか?

宗教学者の島田裕巳の本を読んだ。

宗教学者というのはなんだか耳慣れないが、特定の宗教を信仰するわけではなく、一歩引いた立場で、学者の目線からそれを体系的にまとめる仕事である。島田先生は、仏教・キリスト教・イスラム教はもちろん、新宗教などについても深い知見がある。

以前、youtuberの「えらいてんちょう」という人の動画に出ていたので、それで知っていた。また最近、統一協会がらみでホリエモンの動画にも出演していた。なんというか、飄々としていて、語り口がなんとも面白い人である。

さて、本書は日本の「神道」に関する本である。僕は以前から神社が好きで、仕事で中国に行っていた時は日本の神話が勉強したくなり、「古事記」を書き下し文で読んだりしていた。

なので、神道に対しては多少は知識があったのだが、あらためて、「神道」というものの特殊さを俯瞰することができた。日本の神道は、本当に宗教なのかと思えるほど、制約が少ない。たとえばキリスト教みたいにあれをしてはいけない、これをしなさい、という教義のようなものはないし、仏教のように、この世の真理を説いているわけでもない。

古事記を読めばわかるのだが、大神オオカミである素戔嗚尊スサノオノミコトなど、かなり行動がぶっ飛んでいて、ほとんど犯罪者に近い扱いを受けている神も多い。古事記の内容は、いわば少年ジャンプみたいなもので、堅苦しい内容では全くないので、興味がある人は、ぜひ読んでみるといいと思う。

古事記の内容をボールペンで描いた「ぼおるぺん古事記」という漫画がオススメである。

(ちなみに、作者は映画「この世界の片隅に」で有名になった、こうの文代である)

かつて、神は「おそれる」ものだった。少なくとも古代人にとってはそうであったようだ。 いまでは、「伊勢神宮」は天照大神アマテラスオオミカミを祀る神宮として観光名所のような感じになっている。伊勢神宮の年間参拝者数は1000万人弱だというから、ミスチルも真っ青の動員数である。「会いに行けるアイドル」のような感じだろうか。

古代人にとっての神との関わりは、現代人にはなかなか計り知れないものがある。本書によれば、天照大神は太陽を司る神で、偉大な神であった一方、疫病や飢饉などの元になる「災厄」の原因としても捉えられていたのではないか、ということが書かれていた。

つまり、神というのは、気軽に祀って、気が向いた時に参拝するものではなく、そもそもが「畏怖の対象」であると同時に、「忌むべき存在」でもあったのではないか、ということだ。

日本神話における神々は、要するに自然そのもので、人を救いもすれば命を奪いもする。だから、京都から離れた伊勢という場所に神宮を作った。昔の人にとっては、神の機嫌を損ねるのが一番怖かったのだ。だから、京都から行きやすくも、山を隔てた先にその存在を「祀る」ことにしたのだろう。

現代人の感覚からすると、江戸時代ぐらいまで時代を遡るとすっかり「古代の人」という感じだが、江戸時代の風俗を紐解くと、わりと現代人っぽい感覚を持っていることに気づく。

江戸時代はすでに「神を畏れる時代」ではなかったのだ。江戸時代も伊勢参りは盛んで、有名な弥次さん喜多さんの物語が現代にも伝わっているぐらいだが、どうも信心深いというよりは、物見遊山の性格が強いように感じる。

江戸時代の川柳に、「伊勢参り 大神宮にも ちょっと寄り」というのがある。つまり、目的は伊勢神宮そのものの参拝ではなく、その前後に遊ぶのが目的だ、ということだ。そうなると、江戸時代の人というのは現代人と感覚がかなり似ている、ということになる。

宮崎駿の映画「もののけ姫」は、古代の日本が舞台だ。山の神々と人間の関わりをめぐる、壮大なファンタジーである。時代設定は室町時代とされているが、宮崎駿のインタビューを見ると、ちょうどその頃、「古代人から現代人に代わる転換点があった」のだという。

確かに、物語は神秘性を重んじる人々と、現代的な考え方の人々の対立を軸に描かれる。タタラバと呼ばれる製鉄集団のボスはエボシ御前という女性だが、金と技術によって森を切り開いていく姿勢は完全に現代人の発想だ。そうして、「神を畏れる」ものはどんどんいなくなっていったのだろう。

しかし、神を畏れなくなったということは、神に祈る必要がなくなったということだ。しかし、本当に必要がないほど、自然と我々は折り合いがついているだろうか? 

天災は、現代においても決してなくなってはいない。土砂災害然り、地震・津波然り。地球温暖化に起因する災害は、これからも増え続けるだろう。

もちろん、神に祈ったからどうなるというものでもない。しかし、「自然は人間でもコントロールできる」と考えるのは傲慢かもしれない。東京の沿岸部は、昔は沼地だったところを埋め立てて作られた。そんな緩い地盤のところに、天を仰ぐようなマンションが林立していて、なんだかそういったものが現代人の傲慢さの象徴のような気すらしてくる。

神というのは、自然そのものだから、自然の擬人化とも捉えることができる。神社に行き手を合わせるのは、願いを叶えてもらう、といったことではなく、自然そのものと向き合うことなのかな、と。しかし、そもそも神社という存在自体が、「神を飼い慣らしている」という発想のように思える。



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