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努力量を減らす努力

ホリエモンこと堀江貴文が、見た目によらず(?)、かなりの努力家であることはわりと広く知られるようになったような気がする。

曰く、「自分はなんでも器用にこなせるタイプではない」ということで、成功するまでの努力は惜しまないらしい。ホリエモンを担当する著書の編集者なども、そのあまりの努力量に舌を巻くという。
 
でも、こないだ何気なく動画サイトユーチューブでゴルフに関する動画を見ていて、「ゴルフの『練習』は全くしない」ということを語っていた。上達のための努力は惜しまないが、練習は嫌いらしい。ちょっとその理屈がよくわからなかったのだが、少しそれについて考えてみようと思う。
 
ホリエモンは、ゴルフの上達のために、なるべくラウンドをまわるようにしているのだという。もちろん、それはホリエモンほどの経済力があれば当然のように思うことなのかもしれないけれど、打ちっぱなしの練習はそもそも嫌いらしい。

普通の人であれば、打ちっぱなしである程度打てるようになってから、腕試しの意味でラウンドを回る。でも、それだと最短距離でうまくなることはできないというのだ。


 
僕は小学生の頃から、親に連れられてゴルフの打ちっぱなしに行っていたが、ラウンドは数えるほどしかない。20代後半ぐらいから会社でゴルフに誘われるようになったので、あらためて練習をして、ラウンドを回ってみた。すると、打ちっぱなしとラウンドでは全く環境が違ったので戸惑った。

まず、打ちっぱなしでは力一杯ドライバーで飛距離を求めて打つのだけれど、そんなことを実際のラウンドでしたら、軌道がれていってすぐにOBになってしまう。初心者のうちは、とにかくまっすぐ飛ばすフェアウェイに乗せることを第一に考えるべきなのだ。当然ながら、力一杯スイングすることはない。
 
また、地面の状態も打ちっぱなしのそれとは比較にならない。そもそも、ゴルフ場の地面は平らではない。斜面で打つこともあるし、薮から打つこともあるし、当然ながら砂場サンドから打つこともある。

だから、打ちっぱなしでの練習は、意味はあるかもしれないけれど、最短距離ではない。やっぱり、実際にラウンドを周りながら、戦略を立てることを学び、スコアを縮めていくものなのだろう。

だから、一切打ちっぱなしの練習をしない、というのは実はそれなりに合理的な判断といえるかもしれない。
 
日本人は、わりとこの手の「努力」が好きなように思う。そういう国民性なのだろうか。関係があるかはわからないけれど、僕は「少年漫画週刊少年ジャンプ的な努力の仕方」だと思っている。強くなるために、仙人みたいな人から特訓を与えられ、その後実戦の場において、「いつのまにか」驚異的な力を手にしている、みたいな、劇的な展開を期待しているのかもしれない。香港映画とかでもそういうのはあるので、ちょっと東洋的な考え方なのかもしれない。
 
しかしそれはあくまでもフィクション上の演出つくりばなしであって、最終的にラウンドがうまくなるためには、実際にラウンドを回るしかないし、それが最短距離だ。ラウンドをすると、そもそも最初のショットからして、いつもと全然違うので驚く。

平らな地面にティーをセットして打つというのは打ちっぱなしと変わらないはずなのに、なんだか違和感があって、普段のフォームが発揮できないのである。


 
もちろん、実戦を経て、課題が明確になれば、それを補うための練習も必要だろう。しかし、「練習を極力少なくする」という発想の人は案外少ないような気がしている。
 
努力量を少なくする工夫をしている人が人並みよりも努力していたら、それはとんでもない成果に結びつくだろう。そういう発想が必要なのではないか、と思う。

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