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大半の人はインターネットに書くことがない

何度かここで書いているが、SNSが苦手になってきた。あまりたくさんのSNSはやっていないため、ピンポイントでX(Twitter)のことなのだが。もう発言することはほぼなくなったのだが、長年の習慣でつい開いてしまう。ここ最近、輪をかけて目にするポストの質が下がっている気がする。

日常生活でちょっとでも不快なことがあると、それを発言として書き込む人が多いな、と思う。自分が知っている有名人などでもそういう発言をしている人は多い。プラスの感情よりはマイナスの感情のほうが多いメディアになってしまったな、と思う。

当然ながら、それを書き込む側は共感を求めて書き込んでいるのだろう。ネットの世界は広いので、必ず同調する意見が得られる。よくあるのが、「最近入ってきた新人が非常識すぎてやばい」みたいなやつだ。こんな非常識なことがあった、と事実をややぼかしながら書き込んでいく。

あれを見るたびに「その新人をあなたが指導してあげるんだよ」と思う。「あなただって新人の頃はそうだったでしょ」とも思う。

少なくとも自分は社会人なりたての頃はかなり非常識なことをやったと思うのだが、いちいちそれをSNSで書き込まれていたらたまらない(匿名とはいえ)。最初は非常識でもそのうち学んで是正することがほとんどだと思うので、いつまでもそんな調子だと思われても困る、というのもあるし。

ほかにも、「夫が育児に協力してくれない」「突然離婚を切り出された」「コンビニでこんな店員がいた」「警察官にこんなことをされた」「同僚がこんなことをしてきた」等々、バリエーションは無限大である。ポイントは、すべて一方的な発言であり、事実かどうかさえわからない、ということだ。

ほぼ個別に是々非々で対処しなければならないような事例しかないし、SNSで書き込んだとしても特に何が変わるというわけでもない。どうしてもなんとかしたいのなら法の力を借りるしかないだろう。

これを少し俯瞰して観察してみる。要は、話すことがない、書くことがない人が世の中の大半を占めているのでは、と思う。つまり、「書く人間」ではない人がSNSに多い。というか、大半の人がSNSをやるようになったから、そういうのが目に付きやすくなったのかな、と思う。

どんな未開のジャングルの奥地でも、人が集まればおしゃべりをする。文化人類学の研究によれば、人類の2大トークテーマは「食糧の話」と「うわさ話」だそうだ。この2つがほとんどの会話を占めるらしい。

食糧の話は、インスタとかフェイスブックに乗せている「飯の写真」がそれに該当するだろう。だが、もう片方の「うわさ話」については、あまりにもパーソナルな話はSNSではできない。だから有名人のスキャンダルなどで代替されるわけだ。

リアルな噂話はSNSでは展開しにくいので、そのトークテーマがSNS上では「愚痴」として展開されるのだと思う。人にまつわる自分の不満を話す。リアルの世界で愚痴を言うのはごく親しい人に限られるが、SNSと愚痴は相性がいい。さまざまな人に拡散され、似た思いをしている人が共感の声を寄せる。

直接解決に乗り出しているわけではないから気休めでしかないのだが、生理的に気持ちいいのだろう。なので、そういったコンテンツが大衆的なSNSの話題の大半を占めるようになってしまう。

快適なSNSライフを送るには、くだらない発言を見ないようにしろ、ということだろうか。有意義な発言をしている人だけを厳選してフォローし、それだけを見るのが一番いいのだろう、と思う。

noteはSNSに近いけれど、掲載される文章量は長めだし、単純に「自分の気持ち」だけで構成されている記事って少ない気がするので、まだいいかな、と思っている。

最近のYouTubeの仕様などもそうなのだが、全然フォローしていない人のコンテンツなども流れ込んできたりするので、なかなかコントロールできない部分もあり、厄介だな、と思っている。そもそもインターネット黎明期を知っている人からしたら、「もっと快適なインターネット」がかつてはあったと思うので、どんどん悪化しているのかもしれないが。

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