見出し画像

社会は椅子取りゲームなのか?

僕は教育の専門家ではないのだけれど、教育システムにすごく素朴な疑問がある。

もともと、なんとなく教員には憧れがあって(奥さんによれば、教員の適性はあるということなのだけれど)、大学では教職課程も一年次は履修したりはしていたものの、教育学部ではないということもあり、かなり授業を追加で取らなければならず、面倒になって辞めてしまった。

しかし、別に教職の人を悪く言うつもりは全くないが、自分は教師じゃなくて普通に会社勤めをしていてよかったな、と思うことが多々ある。

中学・高校の教員で不思議なのは、彼らは「一般的企業で働く」経験をしていない、ということだ。なぜなら、彼らは学校を卒業したのち、すぐにまた学校に就職しているからである。

もちろん、学生とは違って、学校を「運営する」という立場なので、まったく見え方は違うとは思うのだけれど、生徒の大多数が就職するであろう民間企業には就業の経験がない。学校も組織である以上、会社的な部分は多いとは思うが、教職という専門職の集団であり、やや特殊な組織と見ていいだろう。

もちろん、教育の専門家集団であり、教育に適している環境といえるが、一般社会からはやや隔絶しているような、不思議な職業である。



数年前、中学・高校の同窓会に行ったとき、痛烈にそれを感じた(僕は私立の中高一貫校に通っていたので、中学・高校の教師とは6年間付き合ったことになる)。

同級生が社会人となり、会話が大人っぽくなっていることも驚きではあったが、何よりも、出席してくれた教師たちに驚いた。というのも、卒業してからもう10年以上の月日が経ってるのに、まだ教師たちは自分たちが学んでいた校舎に勤めている。しかも、私立なので転勤も少なく、10数年前とほぼ同じ人間関係で構成されていたのだ。

もちろん彼らは教育の専門家なので、教育を一手に担うのは当然のように思える。しかし、広い視点で考えてみると、一度社会を出た人が、一時的に教壇に立てるような仕組みが一般的にあると面白い気がする。

もちろん、門外漢が英語や数学を教えるわけにはいかないが、何かの特別授業を受け持つなどして、一時的に教育に参加する仕組みだ。教育というのは、広義には「子育て」の一種なわけだから、社会全体をひとつの器として考えると、一定期間、教育に携わることを義務化してもなんら不自然さはない。

3か月ぐらい、週1でやるだけでも、得るものは教師・生徒の双方あるように思うのだ。



なぜそのように思ったのかというと、「価値観」の多様性を教えることができるのではないか、と思ったからだ。学校にいると、「いい学校に進学することが幸せに繋がる」というような偏った価値観に縛られやすい。実際には、学歴なんてのは人生の要素としてはごくごく一部にすぎないのだが、学校しか知らない人が周囲の大半を占めていると、そういった考えに陥りやすいし、押し付けられやすい。

当然ながら、すべての人間がエリートになれるわけではないのだから、学校という環境は常に椅子取りゲームである。そうなると、息苦しくなるのは当然だ。

しかし、社会というのは学校のように椅子取りゲームではない。それぞれが専門を持ち、多様性をもって社会で役割を担っている。それを教えるだけでも、意味はあるだろう。

中学・高校というのは非常に多感な時期であり、価値観を形成するうえでは非常に重要な期間になると思う。そういう時期に、社会でいろいろな経験を積んでいる大人たちと接する機会がもっとあれば、人生のいい指針になる気がするのだ。


サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。