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金なんかなくても人生は楽しめるようになる

少し前、いわゆる「教養ブーム」的なものがあった気がする。本屋に行けば教養の習得を促すような本がたくさん並んでいた。最近は以前ほどは見ないような気がするので、少しブームは下火になったのだろうか。

「勉強したい大人」というのが一定数いる。いや、それなりの割合でいると思う。スキルアップして仕事の幅を増やしたい、というのがその動機だと思うのだが、心理の奥底にあるのは、将来への不安、というパターンが多いのではないだろうか。将来食いっぱぐれたりするのがいやなので、スキルを身に着け、備えよう、というのである。もちろん大事なことだし、結構なことだ。

しかし、そういったスキルを身に着けることと、「教養」というのは相いれないような気がする。なんか違うな、ということに大多数の人が気付いたので、、教養ブームは終わったのかもしれない。

少し、教養とは何か、ということについて整理してみようと思う。

教養は、英語でリベラルアーツ(liberal arts)という。リベラルとは、政治的な意味では自由主義のことを指すが、ここでの意味は古代ローマなどで定義されるところの「自由市民」のことである。対義語は「奴隷」になる。つまり、あくせく働く奴隷ではない、自由市民が学ぶもの、ということである。

そして「アーツ」は「技芸」を指す。現代英語でartは「芸術」だが、もともとはもっと意味が広い。弁証や音楽、幾何、天文など。つまり、奴隷としてではなく自由市民として、ちゃんと議論ができて、音楽や文学を楽しめる、みたいなことである。

大学というのは一般にリベラルアーツを学ぶ場なので、どこか浮世離れして奔放な感じがするのは当然だろう。いま風にいうと「人間力」を磨く場、ということになる。

なので、金を稼ぐために教養を身に着けるというのはちょっと違う、ということになる。むしろ教養の目的は、「金なんかなくても人生が楽しめるようになる」ことなのかな、と思っている。

例えば教養があれば、ディズニーランドに行かなくても、図書館に行って本を無料で読めばそれで充分楽しめる。そのへんの楽器屋で安いギターを買って、練習してもいい。友達とそのへんで集まって、議論してもいい。

NHKでやっている「ブラタモリ」などはわかりやすい例だ。あの番組では、そもそも教養人であるタモリが、地学や歴史の専門家とともに町を歩き、面白さを見つけていく。

教養と知識があれば、そのへんの坂とか断層を見ているだけで楽しめるのだ。金をためてドバイまで行かずとも、近所を散歩しているだけでじゅうぶん楽しい、ということになる。

実用的には、教養は「動かない知識」とも言い換えられるのでは、と思う。数学も論法も古典も、一度身に着けてしまえば生涯使えるし、そうそう変わるものではない。そしてそれを身につけていると、もっと物事を深く知れるようになる。

美術館に行って、ぼーっと絵を見ているだけでもそれなりに楽しめるが、きちんとした知識があれば、より深いところまで楽しめるだろう。

教養を身に着けたほうがいいのは確かにその通りなのだが、その目的についてはやや誤解がある、といったところだろうか。


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