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伝わらないと、話せない

誰でもそうだと思うのだけれど、会話をしていて、「相手に情報がうまく伝わっていないな」と感じるとき、会話を続行するのがしんどくなる。

たぶん、会話をしながら、無意識に相手の反応をよく観察しているのだと思う。相手がついてこれてないな、と思ったら、たまにちょっとした確認を入れる。

でも、世の中には天才的に相槌がうまい人がいて、本当はわかっていないのに相槌がうますぎて理解しているような感じになってしまう人がいる。そういう人は、伝わっているような感じがするけれど、実際には重要なことは伝わっていなかったりする。
 
僕は三重県出身なので、三重弁をしゃべることができる。しかし、東京の人とかにいきなり「三重弁をしゃべって」と言われても、しゃべることはできない。

三重県出身の人を前にして、三重弁が通じる相手だ、というのがわかってはじめて、滑らかにしゃべることができる。会話というのは、一方通行の情報伝達ではなくて、相互に関係しあうものだからだろう。

同じように、英語の通じない人に英語で話しかけることもできない。何か台本みたいなのがあって、それを読み上げるだけならできるかもしれないが、それにしてもけっこう苦痛を伴いそうだ。

相手に伝わらない台本の棒読みというのも苦手なのである。それは、「慣れ」でなんとかなるのかもしれないが、相手に一切伝わらない状態で語りかける、という訓練は、使い道が思いつかないのでこのままでもいいのだろう。
 
だから、理解力が高くて、自分の言っていることが伝わりやすい相手とはものすごく話しやすい。だから、自分より賢い人とは話すのはとても楽しい。

逆に、理解力がそれほどではなかったり、異なるバックグラウンドの人と話すのは難しいし、それなりに疲れる。どれぐらいのことなら相手が理解してくれるのか、ということから考慮して話しはじめなければならないからだ(ということは、僕と会話をする「賢い人」は、僕よりも疲労している、ということになるが)。

ただ不思議なことに、相手に伝わっていないのに一方的にまくしたてることができるタイプの人もいる。そういう人は、たいてい立て板に水で話しはじめるので、コミュニケーション能力が高い人だと思われがちなのだけれど、コミュニケーションというのは相手に伝達されてはじめて意味をなすので、伝わっていないのに話し続けている時点で、コミュニケーション能力は相当あやしいだろう。

こういう人と会話をするのはしんどいので、たいていは相手の好きなように話させるようにしている。無難に聞き役に徹するわけだ。
 
大学生のときに接客のバイトをしていたのだけれど、いわゆるクレーマーみたいな人たち応対するのがなかなか大変だった。そういう人を相手にすると、相手はこちらに伝わっているかどうかはおかまいなしに怒鳴り散らしてくるのに対して、こちらの言うことはほとんど相手に理解されないので、完全なコミュニケーションの不成立を感じた。

上司(正社員)は、そういうときはコミュニケーションを成立させようとは考えず、平謝りに謝っていたのだが、それが正しい対応だったのだろう。

明らかにこちらに非がある場合は謝罪をすればいいのでむしろ対処がしやすいのだが、相手の要求が理不尽だったり、何を言っているのかわからない場合は非常に苦労した。

そういう経験が積み重なったことが、「コミュニケーションの断絶」を考える機会に繋がったのかもしれない。

話が上手な人は、相手からの情報がちゃんと伝わっていることをときどき示し、こちらから相手にわかりやすく伝えられる人だ。意見に賛同するかどうか、というのは関係がない。

しかし、はなからコミュニケーションを拒んでいるような人とまともに会話をするのは大変なので、そういう場合に必要になるのは、やはり忍耐かな。

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