なんか読書に限界を感じてきた
昔から読書をしてきて、いまでもしているわけなのだけれど、ちょっとそれに対して「限界」というか、昔ほどの効用を感じないことも少しずつ増えてきた。
おそらく、読書の効用が最も高いのは20代後半ぐらいまでで、それ以後ももちろん意味はあるのだと思うのだけれど、それ以前の年齢で感じるほどの効果はなくなるのではないか、と思う。
少なくとも、読めば読むほど役にたつ! 賢くなった! みたいなのは近年減ってきた。もちろん、ときどき知的好奇心を強く刺激するような本に出会うこともあるので、読書をやめるわけではないのだが。
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読書好きは基本的に賢い人が多いと思うのだが(こう書くとなんかアホっぽいが……)、読書「だけ」をしてきた人は結構微妙な人が多い。特に、50代、60代になっても読書の世界でしか世界を認知していない人で、パラレルワールドに住んでるのかな? と思うような人は結構いる。
メディアなどで目にするコメンテーターや社会学者などはそういう人が多いイメージだ。もちろん、フィールドワークを主体とし、実際の人々の声を集めて研究している立派な学者もたくさんいるので、一部ということでしかないのだが。
要するに、自分が気持ちいいと感じる読書だけをしていてもダメなんだろうな、と思う。自分にとって関心のある本だけを読んでいると、いつの間にか自分の考えを肯定するような内容の本ばかり読んでしまい、パラレルワールドに行ってしまう、というのはあるのだろう。
本として出版されているものはネットに転がっている情報よりは信頼できるけれど、陰謀論みたいなものもたくさんある。
やっぱり実戦が大事、ということだろう。よく、本を読んだだけではダメで、行動しないと意味がない、ということが言われる。この言いまわしは実はあんまり好きではない。というのも、自己啓発本やビジネス書などはそうかもしれないが、本というのは別に行動に移せることばかりじゃないだろう、と思うからである。
でも、それはそれとして、「現実世界で実戦経験を積む」ことはやはり大事だと思う。負けること、失敗することが成長につながると思うからだ。
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読書というのは、負けたり失敗したり、というのが基本的にない。内容が難しくて理解できないということはあるかもしれないが、理解できなくても読了できないということはない。たとえ理解ができなくても読了はできる。
仕事は実戦の連続で、いろいろ決断しなければならないし、当然失敗もある。知識や経験が不十分だと、それだけで失敗につながる。趣味の読書で「内容を理解できていない」ことと、仕事の現場で「内容を理解できていない」ことはぜんぜん重みが違うのだ。
プライベートも、いろんな決断と失敗の連続である。むしろプライベートのほうが失敗がもろに自分自身に返ってくる、という側面があるかも。キャリア構築、結婚、家を買う等々、自分でリスクを背負って進めなければならないことはたくさんある。
理系の実験なども失敗がつきものだと思う。自然法則を相手にするので、想像した通りに事が運ばないことはあるのが当然だ。将棋などのゲームも、勝つばかりではもちろんなく、相手がいる勝負事なので、負けるから面白い、という側面はある。
失敗したり、負けたりするからこそ、「なぜなんだろう?」と原因について考えるし、「どうすればいいんだろう?」と解決策を求めるようになる。失敗や負けのないものに長年浸っていると、パラレルワールドに行ってしまうのだろう。実に危険である。
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読書は大事だし、ずっと続けるべきなのだが、あくまで補助的なものかな、と思っている。昔からそうなのだが、一日一時間ぐらいがちょうどいい配分なのかも。
本を読むばかりでなく、何かに挑戦しよう、ということだ。挑戦とは、失敗や負ける可能性のある場に身を置く、ということ。
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