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モラルは人々の心の中に?

最近各所で話題になっている「ゆっくり茶番劇」の商標登録の問題について。

いろんなところに詳細の情報があがっているので、細かい部分はほかのところを参照されたほうがいいとは思うのだけれど、簡単に言うと、ネット上でフリー素材的に扱われていいた「ゆっくり」というキャラクターがいて、ネット上ではYouTubeの動画などいろいろなところで使われていたのだけれど、これの製作者ではない第三者が商標登録を行い、「これを使うと使用料を取りますよ」ということをやったのが発端である。

ちょっとややこしいのだが、「第三者が勝手にそれをやった」というのがポイントで、これらのキャラクターを生み出した人々はこういったキャラクターの使用に関してはきわめて寛容だったので、文化として広まった側面がある。

その盲点を突かれた、という感じだろうか。


 
一時はその界隈は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていたようだが、結局、最終的には商標登録を取り下げたらしいので、とりあえず一件落着、という感じになっているようだ。

しかし、これをみて思ったのは、「いくら法律に違反していなかったとしても、モラルに反する行為は、市民の私刑によりストップされる」んだな、ということだ。

今回のケースは、特定の個人だけが理由なく得をするというスキームで、大多数の人々が被害を被るという「わかりやすい」ケースなので異論はないのだけれど、特に法律などなくても、「それはやっちゃいけないでしょ」という「善悪」は、ある程度は人々の心の中には基準があるらしい、というのがわかった。
 
結局、「善悪」というのはなんなのだろうか。今回のように、「一方的に他人の権利を侵害する」ケースは、それを阻止する方向で世の中が動く、ということがいえると思う。しかし、営利企業の活動はたいていそういう性質をもつものだし、そういう状態を目指すものだと思う。それらが「モラル」としてまかり通るのは、どういう理屈なのだろうか?

そういう意味では、法律というのは常に後付けである。法律をつくる専門家はたとえば国会議員がいるわけだけれど、世の中で不公平さが問題になっていることを議題にあげて、法律によって調整を行う。

しかし気になるのは、その「法律をつくる」ことに対する根拠っていったいなんなのだろう? ということだ。実際、今回のケースは、法律の及ばないところで市民感情に火がついて、思惑通りにいかなかったということなのだけれど、感情によって物事が動くことは本当に正しいのだろうか、ということ。


 
今回のケースが影響する範囲でいうと、世に蔓延る「二次創作・三次創作」の文化そのものが脅かされる、ということになるのだろうか。たとえば、フリーイラストとして有名な「いらすとや」というサイトがあるが、この画像も誰かが権利を登録してしまう、ということはありえるのだろうか。

もちろん、そんなことをしても意味がない、というのは、この件が証明しているわけだけれど。

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