見出し画像

「フォロワーの数はこちらに向けられた銃口の数」という意見

漫画やアニメなどが大ヒットして、それに詳しくない人々にまで名前が浸透したとき、しばしばメディアなどで「社会現象」と呼ばれ、その作品が「社会のなかでどういう意味をもつか」的な文脈で語られることがある。

たとえば最近だと、漫画「チェンソーマン」が引き合いに出されることがある。少年ジャンプの主人公といえば、海賊王になるとか、そういうでかい夢をもっていて、それを追いかけるような作品が多かったのが、チェンソーマンの主人公にはそんな大それた欲望がなく、「普通の暮らし」ができることが最終目的みたいになっていて、それが現代人の心を表している、とかなんとか。

作者の意図がどう、という話ではなく、「その作品を社会はどう受け取ったか」という形で語られるのである。

興味深いのは、そういった「作品のもつ社会性」というのは、「作品がヒットしてから語られるようになる」ということだ(当たり前だが)。つまり、作品単体では、どういうテーマであろうが、それが発表された時点では特になんの意味ももたない、ということになる。ヒットして、社会的にブームになってはじめて、その作品のもつ社会的なメッセージ性などが本格的に問われるようになる。

ヒットしていない作品はどんな内容であれ、「社会」という文脈で触れられることはない。実際、もっと自由な内容のフィクションは世の中にいくらでもあるし、それらは「社会」の文脈で引用されることなく、世の中に当たり前に流通している。

これは、「ヒットした作品」ということは、「世の中の人々の多くが支持している作品」ということになり、そこに「それを求める大衆の心理」を読み解く研究対象になる、ことにつながるのだろう。

むろん、「社会」という切り口で作品が語られることが良いことだ、と言っているわけではない。むしろ、製作側からしたら、そうやって社会や時代という切り口で作品を語られることはストレスに感じるケースもあるのではないだろうか。

「こういった主人公の造形は、現代の若者の深層心理を体現しているのではないか」みたいなことをわかったような感じで言われても、製作者側はピンとこない、というケースも多いのではないかと思う。

つまり、作品がヒットするということは、「作品が自分の手から離れていく」ことを意味するのではないか、と思うのである。もとから意図していないことまで読み取ろうとする人が出てきたり、哲学的な解釈を加えようとする人が出てきたり、直近で起きた犯罪に結びつける人が出てきたり。

作品がヒット作になるにつれ、二次創作などもたくさんでてくるようになるし、「その作品について語る」ことそのものを「自分の意見」として語る人々も増えてくる。作者の目線でみると、そういったものを目にするのは決して愉快なことばかりではないだろう。

また、SNSなどでフォロワーが増え、ある閾値を超えると、急に「社会的責任」が問われるようになる。つまり、不用意な発言ができなくなる。特に、社会は「差別的発言」に極めて不寛容なので、そういうことをしようものなら、一気に足元をすくわれる。

そうなると、もちろん自由が減っていく。これは有名なYouTuberなどであっても、下手な発言はできない、動きがとれない、ということにも繋がっていく。

「フォロワーの数はこちらに向けられた銃口の数だ」と言っている人もいた。なかなかうまい表現だと思う。「有名税」という言葉もある。

しかし、「物事のいい側面を考える」のは大事だと思う。これはいわば一種のトレードオフなのだろう。影響力の少ない代わりにやりたいことをやるか、影響力が大きいのを生かしたことをやるか。どちらがいいか、ということだ。

こうしてnoteで発信するのは自由だし、民主的でいい、と個人的には居心地のよさを感じている。特に編集者がいるわけでもなく、自分の書きたいことを書きたいように書けるし、Twitterなどのようにむやみに拡散されて主張が曲解されることもない(Twitterというのは、短い文章が拡散されやすい仕組みになっているので、誤解を量産する装置だと思っている)。

こういう場を確保するのが、結構自分は求めているものだったりするかもしれない。しかし、あと10倍、100倍と読まれるようになったとしたら、またスタンスも変わってくるだろう。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。