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「死刑制度」に賛成ですか?

死刑について論じている本を読んだ。

著者は小説家で、京都大学で法学を専攻していたらしい。なので、そういったテーマについて考えてきた経験が豊富で、自分などよりはるかにこのテーマについての洞察が深い。在学中は、法学生として、死刑について議論したこともあるのだとか。

僕は、死刑について真剣に考えたことがない。たぶん、自分の生活からかけ離れた世界だからだろう、と思う。自分は死刑になる予定はないし、誰かを死刑にしてほしい、と願ったこともない。関係がなさすぎて、考える機会もなかったということだろうか。

なんとなく死刑を間近に感じたのは、オウム真理教元代表の麻原彰晃(本名:松本智津夫)が死刑になったときである。当時、僕は東京都足立区五反野というところに住んでいて、東京拘置所のある小菅からは目と鼻の先のところだった。近所を散歩していたら、上空を報道ヘリが飛んでいたのを覚えている。

さすがに上空から撮影しても何もわからないのではないかと思うのだが、すごく近所で重大なことがあったんだな、と思った。

そもそも、死刑は「悪いこと」なのだろうか? 日本は死刑制度があるが、死刑制度を廃止した国が多いことからも、そのあたりの解釈には幅があるということなのだろう。

フランス革命などでのギロチンのイメージの強いフランスでは、死刑制度は廃止となったらしい。いち市民としての直感的な感覚では、死刑は問題ないのではないか、死罪に値する人間はいるだろう、と思う。日本では、法的な根拠はないが、三人以上を殺害した者は死刑になる可能性が高いが、自分の感覚的にもそれは一致する。

しかし、死刑が「正しいかどうか」という議論になると、また少し様子は変わってくる。「正しさ」とはなんだろうか。のべつまくなしに殺人を犯すやつを野放しにしておくのは確かに危険だ。しかし、であれば勾留しておけばいい話で、何も殺す必要はないのではないか。

そもそも、人を殺した罪を、死によって償わせるというのは、犯罪者と同等のレベルの思考でしかないのではないだろうか。国家とはいえ、他人の命を奪う正当性はどこにあるのだろうか。

これは本書には書かれていないことだが、歴史的には「島流し(流罪)」という刑罰があり、死刑とは区別されていた。ただ殺してしまったほうが手っ取り早いと思うのだが、殺すのではなく、「社会からの追放」という形をとったのが島流しなのだろう。島流しから生還し、そのまま第二の人生をはじめた人もいる。

現代では、勾留するか、服役させるか、死刑にするかの3択であり、そう考えるとずいぶん野蛮なような気がする。



そもそもの話として、死刑には意味がないという意見がある。死刑というのは、犯罪の抑止として有効であるように感じるが、あまり抑止になっていない、というデータがあるのだ。「死刑になりたくて犯罪を犯す人」が一定数いるからだ。

むしろ、刑罰として考えた場合、終身刑になります、というほうが結構怖い感じがする。死のうと思っても死ねず、可能な限り延命させられるほうがつらい、ということもあるのではないだろうか。思考実験としての「5億年ボタン」など、死ぬよりつらいことというのはたくさんある。



そもそも、遺族が死刑を望まないケースもある。よく、「遺族の気持ちを考えろ」と外野が言うことがあるが、なぜお前に遺族の「本当の気持ち」がわかるんだ、といつも思ってしまう。

当然、死刑にしてほしいと望む人もいるだろうが、なかには死刑を望まない人もいるかもしれない。死刑にして終わりにするのではなく、できるだけ長く生きて、罪と向き合い続けてほしい、と思う人もいるはずだ。

死刑制度があることによって、「遺族が死刑を望まない」ことがバッシングの対象になったりすることもあるのだという。遺族が「何を望むか」というのはそれぞれなのに、死刑という「極刑」があることによって、その選択をしない人々に対して批判が集まる、ということだ。それでは本末転倒だろう。

また、被害者自身が犯人の死刑を望むかどうか、という視点すらある。被害者は、殺害された場合、この世にいないわけだが、仮に天国から現世を見下ろしていたとして、恨みを抱えた人たちに囲まれるよりも、もっと別な感情を望むこともあるのではないだろうか。

考えれば考えるほど、「償いとして生命を奪う」ことは近代国家のやることではないような感じもする。そもそも冤罪の可能性もあることを考えると、合理的とは到底言えないだろう。

本書の著者は死刑反対派なので、むしろ死刑賛成派の本も読んでみたいところである。

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