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給料とチキン南蛮弁当

1円単位でお金を節約する人は世の中にいるが、そういう人を見ると大変そうだなと思う。節約に励むのは正しいことだと思うし、そういう人じゃないとお金持ちにはなかなかなれないと思うのだけれど、あらゆる支出を気にしていたら、神経がすり減ってしまうのではないかと思う。
 
よく、旅行中は財布のヒモがゆるむと言うけれど、やっぱりみんなリラックスして旅をしているときぐらいは、お金のことを気にしないで解放されたいのかな、と思う。
 
ということは、お金持ちになる最大のメリットは、きっとお金について考えなくても良くなる、ということだろう。

村上龍の小説、「オールド・テロリスト」では、主人公の中年の男性が仕事がなくて半分ホームレスみたいな状態になっているのだが、コンビニで買い物する際に一円の単位までしっかりチェックしている様子が描写される。

話のなりゆきでタクシーに乗る展開があるのだが、メーターが跳ね上がっていく様子が、さながら死のカウントダウンのように描写される。

金銭感覚は年齢や状況によって変わってくると思う。僕が中学生、高校生ぐらいの時は、財布に100円ぐらいしかお金が入っていなかった。古本屋で安い漫画が買えるかどうかと程度の金額だ。なので、コスパが良い小説などを買っていたように思う。

大学生になるとバイトし始めたので、急に万単位でお金が持てるようになった。就職したら自分の責任ですべてのお金を使えるようになり、さらに扱える金額は大きくなった。
 
自分の中で「一万円」というお金の単位は激変している。中学高校の時の感覚では、「一万円」はまさに天文学的な数字だった。親戚の家に行ったときに、1日かけて大掃除を手伝ったことがあるのだが、日当として8,000円ほどもらったことがあって、その時はもう何でも買えると思った。

正月だけはお年玉などで手にすることができる金額だが、通常時にそれほどのお金を持つことなどなかったのだ。
 
大人になったいまは、一万円ぐらいでは別にどうということはない。なんというか、お金としての実感が希薄になっている。10,000円をぱっともらったとしても、それを使ってしまうと言うよりは、家賃や生活費の中に消えてしまうような気がする。そのかわり、無駄に使わないで、将来必要なときのためにとっておこう、という発想にどうしてもなる。
 
お金の実感を取り戻すためにはどうしたらいいのかと言うことを考えた。自分が普段お金を使っているものに対して置き換えてみたら少しは実感がわくかなと思った。
 
僕はホットモットのチキン南蛮弁当が好きなので結構よく買うのだが、あれはちょうど500円なので、一万円あれば、20個の弁当買うことができる。そう考えるとすごい。自分の給料を500で割ってみたら、1ヶ月で何個の弁当買うことができるかがわかった。なるほど、こうやってモノと置き換えていくと結構わかりやすいかもしれない。
 
僕がいま欲しいと思っているフェンダーのテレキャスターは70,000円なので、チキン南蛮弁当に置き換えると140個か。なかなかだな。

お金そのものに価値はない。お金というのは物価と連動しているから、こうして身近なもので割ってみるのが手っ取り早いのだろう。例えば、手取りで20万円の給料をもらっている人がいたとして、日本円がインフレして、手取り給料が30万円になったとする。

給料の額面が1.5倍になったわけで、これは嬉しいだろう。しかし、いままで500円で変えたチキン南蛮弁当が750円に値上がりしたら、1ヵ月の給料で帰るチキン南蛮弁当の数は400個で変わらないから、実質的に給料は同じと言うことになる。要するに、これが「インフレ」の正体。
 
お金と言うのはすごくふわっとしていて、その時の状況や世界世界の情勢によっても左右される。自分が普段から買っているもの、身近なものをベースにお金と言うものを捉えたほうがわかりやすい。

そうやって、「金銭感覚」をつかむのも、ひとつの方法だろう。あなたなら、どんな身近なものだと、金銭感覚がつかみやすいですか?

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