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普通に労働している日常が、創作意欲に変わっていく

以前、ゲームディレクターの桜井政博氏による、作品を生み出すときの「内圧」という考え方について触れた。

同氏によれば、ゼロからものを生み出す人は、それを企画している段階では誰にも話さず、「内圧」をカンカンに高めるといい、とのことだ。

途中でだれかに話すと、ガス抜きがされてしまい、勢いがなくなってしまうらしい。これは以前にも書いたことがあるのだが、少し違う角度から考えてみる。

今は「プロセスエコノミー」という言葉があり、作品を制作する過程そのものを公開し、それ自体を楽しんでもらおう、という考え方がある。イラストレーターが作業風景を配信したりすることなどがあるが、最近は漫画家も原稿を執筆する様子を配信したりすることもあるようだ。これは上記の「内圧」とは正反対の考え方になる。

クリエイターがものを作るとき、その原動力となるエネルギーはどこからくるのか? という視点があるように思う。

以前、小説家の中山七里先生の執筆風景の動画を見たことがある。かなりの速筆・多作の人なのだが、単純に筆が早いというだけでなく、そもそも毎日20時間ぐらいを執筆に充てているようだ。とんでもない。

よく、現実から逃避したくて「小説家になりたい」などと言っている人がいるが、普通に働いて稼いだほうがはるかに楽だと思える。日本の、特にミステリーで専業の作家となると、かなり速筆の人(というか、その執筆量に耐えられるだけの根性がある人)じゃないと成立しないんじゃないか、と思う。とにかく量産でき、とにかく書ける人じゃないと。

自分は学生の頃は小説家を目指していて、小説を書くだけで食べていけたらいいな、という甘い(?)妄想を抱いていた時期もあったが、少なくとも自分にはこういった生活スタイルは真似できないな、と思ってしまう。

たぶん早々に書くことがなくなり、書きたいという意欲さえ枯渇してしまうことだろう。

最も創作意欲が旺盛だったのは大学生のときだ。当時は土日はほぼバイトが入っていたため、あまり自由に使える時間は多くはなかった。バイト中は当然、自分のやりたいことなんてできない。しかし、そこでたまったフラストレーションが、そのままダイレクトに創作意欲になっていたような気がする。

バイト中に小説を書きたいという思いを募らせ、それを帰宅してからぶつける、そういうサイクルがあったのだ。「内圧」という考え方でいうと、アルバイトでの仕事がそれを高める装置として機能していたというわけである。

大学生の段階だと、将来の先行きが今以上に見えず、それによるストレスが大きかったこともあるかもしれない。そういったものすべてが、創作活動に自分を向かわせていたような気がする。

「内圧」がないと人はなかなか動かないものなのかもしれない。自分のすべての時間が自由時間で、創作に充ててもいいですよと言われても、たぶん自分だと持て余してしまうような気がする。

以前友人から、創作活動がしたいのなら、もっと楽な仕事をして自由な時間を増やせばいいのに、と言われたことがあるのだが、それだとうまくいかないような気がする。「内圧」が高まらないためである。あくまでも自分の場合はということだけれど、日常は普通に会社員として仕事をしていてこそ、書くべきことというのもまた生まれてくるような気がするのだ。

プロセスエコノミーとやらが主流になっていくのなら、その逆を行ってやりたい。何かをやるときは黙ってやる。いま取り組んでいることもあるのだが、とりあえず完成までは頑張って、黙ってやり遂げたいと思う。

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