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「差分」を拾い集めるのが人生

学生の頃から日記をつけている。こうしてネットに公開している文章ではなく、本当に自分が読むためだけのものだ。

日記では、毎日書くということ以外、特にルールは設けていなかったが、最近、一日の文字数をちょうど800字にするのにハマっている。文字通り、一文字もはみ出さずに、ちょうど800字に調整するのだ。

当然、普通に書き上げると何文字かはみ出てしまったりするわけだが、最後は句読点や、言い回しを工夫したりして調節する。やってみると、案外簡単にできるものである。

一日を決まった文字数で表現することの何が面白いかというと、一日の密度が文章で表現できるようになる、ということだ。イベントが盛りだくさんで、書く内容が豊富にある場合は、自然にシンプルな文章になる。一方、代わり映えのしない日の場合は、書く内容がないので、日常のしょうもないことを書いて隙間を埋めることになる。しかし、何年か経つと、その「日常のしょうもないこと」すらも懐かしくなったりするので、案外貴重な記述なのである。

日記は書くものの、滅多に読み返さない。なので、何を書いたのか、書いたそばから忘れてしまう。読み返すときは、一年前の同月の日記を読み返したりすると面白い。五年分ぐらいさかのぼって、同月の日記を読むと、一年間の変化もだいたい掴める。

自分の身辺では、ちょうど二年前に結婚・転職・引っ越しがあったため、その前後一年間の変動が非常に大きい。なので、一年前、二年前と日記を遡っていくと、その頃に大きな断層のようなものがある。

日常というのは少しずつ緩やかに変わっていくように見えて、どこかの時点でバツっと大きな変化が訪れるものらしい。自分の場合はそれが顕著なのだが、おそらく、どんな人にだって言えることだろう。

以前ここでも書いたのだが、僕の最初の仕事は、トラックでパンをコンビニに配送する仕事だった。基本的にずっと夜勤で、なかなかハードな仕事だったのだが、おそろしかったのは、毎日が全く同じような内容で過ぎていくため、時間の流れ方が半端なく速い、ということだった。

一日のルートは完全に固定されており、分刻みでスケジュール通りの行動をとらなければならない。そんな中で、トラブルなどで少しでも変化があれば「変化があった」ということで記憶に残るのだが、すべてが無事に終わった「平和な日」の場合、記憶に残るべき「変化」が何もなく、その一日が「なかったこと」になってしまうことに気付いた。

極端な話、一ヶ月間、なんのトラブルも発生しなければ、何も記憶に残らない。その一ヶ月、生きていたのか死んでいたのかもわからない、ということだ。

日記をつけることで、そういった「変化の差分」を拾い集めることはできる。その「差分」こそが人生なのでは、と思うのだ。変化がありすぎても大変だが、変化のない人生は、本当に薄い内容のものになってしまうだろう。

そういった「差分の記録」が日記の本当の役割なのかもしれない。差分は、積極的に探すことで、新たに発見することもできる。文字数を固定した日記をつけることによって、日常の細かな差分を発見し、記録に残すことができるようになるだろう。


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