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常識をはずしてものを「観察する」ためには?

以前の記事でも書いたが、月に数回、会社のお金でビジネススクールに通っている。

といっても、一般的なスキルを習得するためのものではなく、事業創出などを目的とした研究会的なものだ。ワークショップ形式で課題に取り組みながら、物事の洞察を深め、アイデアについて議論したりするものである。

そこで学んだものに、「観察すること」がある。「観察のやりかた」を習ったことがあるだろうか? 一般的にもよく使われる単語なので、観察というものが意味するところを理解できない人はいないだろう。

観察という言葉は知っていても、実践している人はどれぐらいいるだろうか。実践しているという人であっても、本当に観察できているか? というと、どの程度かは人によってまちまちだと思う。

よく見る、じっくり見る以外に「観察」って考えられるだろうか。

日常的に使うものであっても、多くの場合必要としているのはその機能であって、それがどういう形状をしているか、どういうふうに作られたのか、といったことをじっくり見る機会は少ないと思う。

使用したうえで特徴を述べることは観察ではない。それは単なる感想だ。それそのものをじっくりと、多角的・客観的に見ることを観察というのだ。

たとえば、コンビニなどで普通に売っている、コップやお皿などの容器。たとえば、容量が350mlと書いてあったとする。その容量は「観察」によって導き出されたものだろうか? 測りもしないのに、書いてあるだけで勝手に350mlと信じ込んではいないだろうか? 

それは観察ではなくて、ただ単に相手の言っていることを信じているだけ、信仰の一種だというのである。たとえば賞味期限などもそうだ。それが書かれているからといって、本当にその日までに食べなければならないのかはわからない。

多くの人は、相手の言っていることをそのまま信じ込み、依存している。観察によって導きだされた情報を大事にする人は少ない。
 
コーヒーを入れる紙製のコップなどで、耐熱加工が施されているものがあるが、そういったものが施されている、というだけでそれを全面的に信じていないだろうか? 耐熱とはいえ、熱さに耐え切れる性能には限度がある。実際に使ってみて、熱さ何度のお湯を入れて持ったら何秒まで耐えられるとか、そういうことをやってみることを「観察」というのだ。

そのへんにある工業製品を見てみると、よくわからない形状をしていることが多い。その形状はなぜそうなっているのか。それを外すとどうなるのか。別の形だとどうなるのか。そういったことも、よく観察してみないとわからない。

そういう作業に没頭していると、いかに普段から自分たちが常識に支配されているか、ということがよくわかる。わかっていないのに、ちょっと聞いただけで「わかったふり」をしているのだ。というか、「わかったふり」をしないと成り立たないのが現代社会なのだろう。

いかに普段の生活が「常識」に支配されているか、ということだろう。とはいえ、常識というのは超便利なものだなと思う。常識があるから人は楽に生活ができる。常識がないと生きていけない。

しかし、常識があるおかげで、僕たちの目は曇っている。というか、実質的には何も見ていないに等しい。自分の常識の、自分の解釈でものを見ているからだ。ありのままを見ているわけではない。

常識を外してものを見るにはどうしたらいいか? というと、スケッチをすることらしい。スケッチをすると、見たものをありのままに紙のうえに写す必要があり、その過程で観察眼が磨かれる。絵を描いている瞬間だけは、常識が入り込む隙間がない。

そうやって観察から得られた情報をベースに、ものを考えると発見があるはずだ、と。なるほど。意識して常識を外すことが大事、と。

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