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受験勉強で身に付くのは、「受験の能力」だけ

昔から考えていることがある。何かの能力を習得したければ、前準備をいろいろと進めるよりも、実際にそれをやるのが手っ取り早いんじゃないか、ということ。野球がうまくなりたければ野球をしたらいいし、将棋をうまくなりたければ、将棋を指せばいい。そんな当たり前のことが、大人になるとだんだんわからなくなっていく。

大人になればなるほど、恥をかきたくなくて、下準備や基礎能力を身につけるところからはじめなければ、と思いがちなのだけれど、本当にそうなのかな? ということを思う。
 
僕は受験勉強をあんまり真剣にやらなかったので、たいしたことのない大学に進学した。でも、当時は受験勉強に割くためのリソースがもったいないと感じていて、極端な話、「受験勉強に集中するということは、受験勉強のことばかりやるわけだから、総合的にみたらバカになる」とすら思っていた。

まあ、今となっては、大学受験の期間というのはせいぜい1、2年のことなのだから、それなりに真剣に取り組んでもいいように思えるのだけれど、10代の若い時期に1年間をそれのみに費やす、というのは確かにもったいないかもしれない。結果としてどちらが正しいかはわからないけれど、当時はそう考えていた。


 
受験勉強は人の能力を向上させるのだろうか? 実際のところ、受験勉強が涵養するのは「受験の能力」が中心で、もちろん取り組み方や計画の立て方など普遍的に鍛えられる能力もあるが、ほぼ「受験の能力」しかないのではないだろうか。
 
それと似たようなもので、たとえばIQのテストというものがある。IQテストは、IQが高い人が受けたらそりゃいい点数が出るのかもしれないけれど、いいIQを出すためにIQテストを受けまくったら、結局「IQテストに特化した」脳になるだけなのでは、と思う。

ただIQをあげたいというのであればそれでもいいのだけれど、本質的にその人が賢いかどうか? というと、また別な問題のような気がする。
 
語学についても似たようなことがいえる。よく、日本人は受験英語を勉強しているから、英語を話すことができない、と言われるが、それはその通りで、いまの日本語教育の現場では、英語を話す機会がないのでそりゃそうなるだろうな、と思う。

でも、英語しかしゃべれない環境に放り込むと意外とすぐに話せたりするので、話したければそういう環境に持っていけばいい。「会話」を避けて「会話の能力」は身につかないよな、と思う。

基礎が必要なのはもちろんなのだけれど、基礎的な力のみを身に付ける作業は効率が悪い。僕はゴルフを数年前によくやっていたが、打ちっぱなしで練習しているだけよりも、実際にラウンドを回るようになってからかなり上達するようになった。打ちっぱなしの練習だと、「遠くに飛ばす」練習しかしていなかったのだが、ゴルフは実際には遠くに飛ばすことよりも「正確に飛ばす」ことのほうが重要なので、打ちっぱなしで練習している人は、みんな自分の課題を意識して練習している。

自分の課題というのはラウンドしないとわからないので、打ちっぱなしだけをやっていると、「遠くに飛ばす能力」だけが身についてしまう、というわけだ。ある程度できるようになったら、実際にラウンドをしてみて、それから基本的なことを身につければいいのでは、ということ。


 
何かやりたいことがあったら、それに向けての準備を進めるのもいいけれど、いきなりやりはじめたほうが効率がいいかもしれない。足りないものは、やりはじめたら痛切にわかる。「失敗をおそれるな」という言葉の本質は、ここにあるように思う。

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