少子高齢化に対する違和感など

現代日本は少子高齢化社会と言われていて、それが大きな社会問題になっているのだけれど、僕は方向性としてはむしろ自然なことなのでは、と思っている。

少子高齢化をやたらと訴える人々は、じゃあ人口が増え続けるのが自然だと思っている、ということなのだろうか。いまの日本で、人口が2億とか3億とかになっていったら大変だ、というのは誰にでもわかるだろう。
 
経済用語で、「神の見えざる手」という言葉がある。

アダム・スミスが「国富論」の中で提唱した概念だけれど、資本主義経済において、民衆の私利私欲のままに経済活動を行わせれば、自然と「市場」が形成され、需要と供給のバランス調整がきく、というものだ。

それが行きすぎて、いまは富の集中が問題視されているけれど、歴史を振り返れば、概ね機能しているといえるだろう。僕は、この「神の見えざる」が、人口の調整にもいえるのではないか、と思う。
 
一般に、新興国であれば教育コストが安く、むしろ子どもを労働力として使役したり、老後の面倒をみさせたりするために産むので、出生率は高い。しかし、国として発展していくと、むしろ子どもを育てるのはコストがかかるので、出生率はさがる。

いまの日本で、子どもが6人も7人もいて、全員を大学に進学させるのは現実的ではない。ひとりふたりでも、経済的な負担はそれなりに大きい。だから、人口が減っていく、というのは自然なことかな、と思う。

少なくとも、「戦前」「戦後」は、日本は新興国のような立ち位置だったわけで、GDPが世界3位となったいまと比較しても、状況が違う。

じゃあなにが問題かというと、要するに「高齢化」という部分が問題になるわけだ。

高齢者が増えているのに若者が少ないので、若者への負担が大きくなりすぎる、というのが問題とされている。「若者」=「労働者」とみなしているので、負担が大きくなる、という発想になるのだろう。

でも、それってほんとですか? と思う。たとえば一日じゅう50キロの袋を抱えて走り回ったりする仕事だったら、そりゃ若いほうがいいと思うけれど、いまの日本の仕事ってそうなってるだろうか。

若くて体力があっても、エアコンのきいたオフィスでパソコン仕事をしている人も多いと思うのだけれど。
 
パソコンが爆発的に普及したのが、Windows 98の頃だと思うので、1998年としてみる。新しいものへの抵抗が比較的少ないのが40代以前だと仮定する。

1998年当時、ちょうど40歳だった人は、2020年現在は62歳だ。「おじさん」=「パソコンができない」というイメージがあるけれど、2020年においては、62歳より若い人は、全員Windows 98が発売した当初は30代だったのである。

いまにしても、労働人口のかなりの部分が「パソコン世代」だと思うけれど、今後10年ほどしたら完全にその世代になるだろう。

「ITは一切わからず、単純労働だけやっている労働」からの脱却をすべきだし、そういう人ばかりの世の中ではないよな、と思う。

僕自身は、人口が減っても別にいいと思う。国土の状況に応じた「理想の人口」というのが、おそらく数学的に導き出せると思うのだけれど、そういう「理想国家」を目指して、うまくいかなかったのは歴史が証明している。

なにより、「理想の人口」を目指して社会が調整を強要する、というのは気持ちが悪いので、自然なままにまかせるのがいいのでは、というのが率直な感想。
 
そして、高齢者が増え、人口が減れば労働力が減る。それってほんとですか? というのも、率直な感想。

高齢者が増えて、人口が減っても、労働力を減らさない方法はあるのでは、と……。

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