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社会は理性でまわっている、でも感情は

「感情」について考える。たとえばコンピュータには「感情」がないので、「感情」を人間にのみ許された高尚なものとみなす人もいるけれど、僕は、感情って別にそんなに高尚なものでもないような、ということをよく考える。

人間以外のもの、人工知能はもちろんだが、動物にも感情があまりみられない(ような気がする)ので、感情というのは人間にのみ託された特別な情動、とみなすのかもしれない。
 
しかし、実際には感情というのはきわめて原始的なセンサーだと思う。特に大事なセンサーは、「恐怖」の感情だろう。「恐怖」がないと、敵から逃げることができず、すぐに死んでしまうから、生存の上では一番大事な感情だといえる。

一見すると感情がないように見える動物も、「恐怖」という感情は備えているように思える。動物園にいる動物たちは淡々としているように見えるが、外敵に追われることもなく、また餌を捕食する必要もなく、つまり刺激が少ないので、淡々としているように見えるのだろう。野生の動物にカメラをつけて追い回したら、きわめて感情豊かに見えるかもしれない。
 
一般社会、つまり仕事や学校では、感情がないほうが有利だ。社会は、感情よりも理性が優先されるからだ。つまり、社会は、社会が定める一定のルールがあるので、それに則って行動したほうがよりよい成績を挙げられる。「感情」が高尚なものだというのはそれなりにメジャーな意見だと思うが、社会においては「感情的になるな」とよく諌められる。

感情と密接に結びついているもので、人間には「痛覚」がある。怪我をすれば痛い。この「痛み」も、人間が自分で作り出しているセンサーだ。正直、怪我をしてめちゃくちゃ痛いとき、こんなに痛い必要ってあるのか、と思う。でも、それぐらい「痛く」して、行動を抑制しないと、怪我がさらに悪化するので、身体的な機能としてやむなく、それぐらい「痛く」しているのだ。センサーとしては、過剰に見えて、きわめて正常に動作しているといってもいい。
 
でも、外科手術のときはその「痛み」が邪魔になるので、麻酔を使う。麻酔を使って、防衛本能である「痛み」を麻痺させて、手術を行うのだ。これは、医療行為というのが、「痛み」などの本能的な対処を超えた、きわめて理性的(体系的)な行為だからである、といえる。「感情」を克服した社会もまた、「理性」のなせる技だ。会社や国家が、もっと感情的だったら困ると思う。それこそ、ギリシャ神話などで、神を怒らせたら国がひとつ滅んでしまうといったような。現代社会は、そういった「感情」や「痛覚」を超えた、理性のうえに成り立っている。失敗を重ねて、人類が歩んできた道のりだ。

最近、友人とこのブログについて話をしたとき、書くスタイルが変わったね、ということを言われた。確かに、以前に比べるとちょっと方針を変えた。以前は、社会で起きたこととか、読んだ本を解説するとか、ちょっと「理性寄り」の内容だったと思う。いまは、どちらかというとエッセイのスタイルというか、普段生きていて自分が何を思ったかとか、感じたかとか、考えたか、ということを中心に書くようにしている。
 
社会は理性で回っている。感情は高尚なものではない。でも、僕は人間の感情や感性を忘れることは、重要なセンサーを失うことだと思うので、せめて自分の書く文章としては、そういったものを大事にしたほうがいいのかな、と思って書いている。まあ、それでもどちらかというと理性寄りの文章だとは思うのだけれど。
 
自分がいま「生きている」ということをつらつら書いている、というほうが近いかな。もっと理性モードで生きているときもあるので。(執筆時間16分17秒)

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