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なぜ子ども向けコンテンツが重要なのか?

以前、「スマブラ」などの有名な任天堂タイトルを制作したゲームディレクターの桜井政博氏のYouTube動画の中で、「なぜ任天堂は子どもをターゲットにした作品を作るのか?」について触れられていた。

同氏の立ち位置としては、任天堂の社員ではなく、任天堂からゲーム制作の依頼を受けてゲーム制作をディレクションしているという立場なので、正式な任天堂の見解ではないと断りつつも、その理由について説明されていた。

曰く、「子どもはまだ趣味趣向が枝分かれしていない状態だから、個々人の関心の幅が狭く、狙いが定まりやすい」というのがその理由のひとつだ、ということだった。

なるほど、じつに合理的である。

実際に大人になると非常によくわかるのだが、大人の趣味趣向はさまざまである。野球が好きな人もいれば、キャンプが好きな人もいるし、パチンコが好きな人もいれば、日本酒が好きな人もいる。

もちろん、それぞれがマーケットとしてはそれなりの規模をもち、十分に商売としては成立する。少子高齢化社会になってきているので、子どもをターゲットにするよりも、マーケットの大きい大人に向けたほうがいい、という判断もあるだろう。

しかし、「子ども」というのはそういった価値観が枝分かれする前段階なので、たとえパイが小さくなっても広範囲に狙うことができる、という主張は一定の説得力がある。

子どもの遊びは、大人ほどはバリエーションが多くはなく、しかも大半が「友達が遊んでいるから」といった理由でそれを選択する。つまり、そういった層を狙えば、確実にある程度のマーケットをつかむことができる、というのである。

確かに、そういう戦略だと聞けば、この少子高齢化社会にあってもかたくなに守り続けているのも納得である。

その戦略を聞いたとき、マーケティングの観点から納得したのだけれど、また別の側面も考えている。子どもの頃に触れた情報というのは非常に貴重で、極端なことをいうと、一生残り続けるものだ。

だからこそ、「教育が大事だ」という結論にたどり着きがちなのだけれど、「学校教育」の外側に付随する「子ども向けコンテンツ」がことさらに重要なのではないか、と思うのである。

自分の過去を思い返してみても、小学生のときに遊んだゲーム、読んだマンガ、聴いた音楽などはいまでも鮮明に思い出せる。小学生にとっての1か月と、大人にとっての1か月はまるで違う。小学生の1か月は、大人になっての1年以上の「濃さ」があるのではないか、とすら思う。

自分は購入していないのだが、ニンテンドースイッチで「ゼルダの伝説 夢を見る島」のリメイクが出た時は、懐かしくて買おうかと思った。また、これから「スーパーマリオRPG」もリメイク版が出るとのことである。非常に懐かしい。




子どもにはアホなYouTube動画を見せたくない、という親が多いというのはよく聞くが、まあそうなんだろうな、と思う。貴重な子どもの時間をしょうもないことに浪費させたくないという親心なのだが、当の本人はその時間の有限性をあまり理解していない。

いまのヒカキンやフィッシャーズが、昔で言うところの中村名人や山寺宏一に該当するのだろうか。何が「良質か」を大人が判断するのはちょっと難しいのだが、ある程度はそういったことが必要になるだろう。

基本的には「頭を使う」ことが大事なんだろうな、と思っている。脳死状態でただぼーっと見ているだけだと、何も育たない。絵を描いたり、文章を書いたり、スポーツで遊んだり、楽器を弾いたり、ボードゲームで遊んだり、なんでもいいのだが、能動的に頭と体を使うのがいいんだろうな、と思う。

大人になるにつれ、自然と価値観は分岐していく。マニアックな趣味に浸るようにもなるだろう。まあ、子どものうちからマニアックな趣味があれば、それを育ててもいいのだけれど。




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