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単純労働の魅惑に溺れない

年末は仕事がそれなりに忙しくて、実際に手を動かして仕事をすることが多かったのだが、ちょっと仕事の波が落ち着いてきて、質が変わってきている。

作業をマニュアル化して人にやってもらったり、自動化したりするようになったので、単純に仕事の工数が減った気がする。比率で言うと、「考える仕事」の比率があがっていて、一日じゅう考え事をして、資料を作ったりする日も多い。

まあ、仕事は仕事なので、何がいい、悪いということはもちろんないのだけれど、ちょっと不完全燃焼な日々を送っている。
 
簡単に言うと、「単純労働の魅惑」が少しある。人間は、本能的に、「単純労働がしたい」という欲求があるように思う。

僕が新卒のときにやった一番最初の仕事は、コンビニに荷物を配達するトラック配送の仕事だった。夜中に工場を出て、夜通し配送を続け、翌日の昼までに100件の荷物を配るという、かなり過酷な仕事だった。実際、休みに入ると、休み明けのことを想像して気分が憂鬱になるほどの過酷な仕事だったのだけれど、そのぶん、充実感はあったように思う。

毎日、トラックに荷物をパンパンに詰め込み、それがカラになるまで配達を続ける。すべての荷物が配達し終わると、その日の仕事は終わりで、ラジオなどをかけて、甘いコーヒーを飲んだりして、鼻歌まじりでトラックを運転して工場に帰っていくときのウキウキ感は結構好きだった。

家に帰ったらもうクタクタで、趣味に当てる体力もあまり残っていないことが多かったけれど、それでも、日々全力で仕事をしているような充実感はあった。


 
最近はゲームをあまりやらないのでよくわからないが、テレビゲームなどもけっこう単純労働が多い印象がある。僕がやっていた頃は、RPGでレベル上げをしたり、お金を貯めるために雑魚敵を狩る、みたいな「作業」がけっこうあった。また、「おつかいイベント」みたいに、パシリみたいなイベントも少なくなかった。

もちろん、それはある種の「労働」に近いので、できればやりたくはなかったのだけれど、やったらやったで充実感はあった。数字が目に見えて上がっていくのが面白かったのだろうか。それが不毛だとわかってはいても、日常で感じられる「成長の瞬間」だったのかもしれない。
 
最近はちょっとした「教養ブーム」で、「教養を身につけるためにはこういう本を読んだらいい」などという企画が持ち上がることがある。それと同じで、「こういう能力を身につけるためにはどうしたらいいですか?」という質問も結構多いらしい。

そんな特効薬みたいなものがあったら苦労しないのだが、人は「これをやったら、この成果が得られる」という単純な取引に魅力を感じるようだ。明確に「これをしなさい」という指令がくだるということは、一種の単純労働なので、それをやって、目的の成果を得たい、ということなのだろう。


 
最近、趣味ではじめた将棋で、どうやったら強くなれるのか、日々試行錯誤している。いま目指しているのはアマ初段なので、ある程度は「こうしたらいい」というのが見えているものの、勉強方法はいろいろなことを試している。

「これさえやれば初段になれます」みたいなものも結構あるのだが、実際に何をやるかは自分で考えて取り組んでいる。将棋は序盤・中盤・終盤とフェーズが分かれている。

序盤は、ある程度は定石と言って、決められた「型」があるので、それを勉強することができる。終盤は、相手の「玉」を詰める段階なので、詰将棋をやることで力をつけることができる。一方、「中盤の鍛え方」というのが一番難しく、明確な正解がないので、どうやったらいいのかわからないことが多い。要するに、AIでも正解が見出しにくく、鍛えるのが難しい、ということになる。
 
しかし、こういう「単純作業では鍛えにくいところ」ほど、工夫の余地があり、伸びしろがあるように思う。単純作業の魅惑に溺れず、なるべく脳で汗をかくようにしたい。

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