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コンテンツ消費の温度感

妻の学生時代の友人夫妻の家に呼ばれて、遊びに出かけた。僕は初対面だったのだけれど、非常にウェルカムな雰囲気で、リラックスした時間を過ごすことができた。

家には子どもが3人いたのだが、突然の来客に怯えることなく、いろいろと構ってくれた。まだ小さい子どももいたのだが、お絵描きといったいろいろな遊びのほか、タブレットでYouTubeをひたすら見たりしていた。

最近の子はテレビがわりにYouTubeを見るというのは聞いていたのだが、その「見方」がなかなか衝撃的だった。見たい動画をサムネイルで見て選定するのではなく、テレビのチャンネルを回すように、いろんな動画を次々に開いていくのだ。

いったん気に入ったものが見つかるとずっと見ているのだが、内容に喜怒哀楽を見せることもなく、黙ってじっと見つめている。かと思うと、急にほかのことをはじめたりもする。面白いのか、面白くないのか、がはたから見ているだけではよくわからない。

これは、小さい子どもがいる家では、わりと一般的によく見る光景なのではないかと思う。大人は面白いコンテンツを見るとき、納得したり、笑ったり、周りの人と会話したりしながらそれを楽しむので、「楽しいんだな」というのがよくわかるが、子どもの面白がり方はそれとは対照的だ。そもそも、コンテンツを「面白い」と思って見ているのだろうか。

自分も、小さいときは同じビデオを何回も何回も繰り返し見ていたというのは聞くのだが、それは面白いから見ていたのだろうか。どうも、大人にとっての「面白さ」と、子どもにとっての「面白さ」にはギャップがあるようである。

いま、うちでは猫を飼っているが、たまにテレビの映像に関心を示すときがある。鳥が映った映像は、本能的に関心がむくようである。しかし、この場合は、もちろんコンテンツが「面白いから」見ているわけではなくて、「鳥がいるから目で追いかけている」、という感じである。小さい子どものコンテンツ消費は、どちらかというと猫に近い。

コンテンツを発信する人は、受け手側がどういうふうにそれを消費しているのか、知る機会があまりない。僕もこのように日々文章を更新しているものの、これをどういう人が、どういうシチュエーションで、どういう表情をしながら読んでいるのかを知らない。

子ども向けのコンテンツを発信している人は、子どもがこういう感じで見ていることを想定しているのだろうか。もちろん、トップ層にいる人たちは明確に意識しているはずで、コンテンツの内容にも影響しているのだろう。

人気のコンテンツを、子どもたちは真剣に見てはいるものの、やはり大人たちのように、コンテンツの内容の深さや、面白さによって判断しているのとはまた違う判断基準を持っている気がする。つまり、内容が面白いかどうかではなく、とにかく「わかりやすさ」「動きの多さ」が重視されているように思うのだ。簡単に言うと、SEがついていろんな音が出るかどうか、みたいな単純なことだ。

しかし、それにしたところで「人気のある動画」と「そうでない動画」には差がある。その差は一体なんなのだろう、と。子ども向けのコンテンツのほうが、大人向けのコンテンツよりも、ロジックに基づいていない分、奥が深いような気すらしてくる。

発信したコンテンツをどれぐらいの人が見てくれたのか、という「数字」は簡単にわかるが、「どういう温度感でそれを見ていたのか」というのを示す数字はわからない。

とくに、子どもたちは「見ているのか、見ていないかどうかすら定かではない」状態で消費したりしているものである。日本のトップYouTuberは子ども向けのYouTuberだというが、確かに「数字だけ」で判断すると、あらゆる動画をいつまでも見られる分、強いかもしれない。

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