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なぜ映画を早送りで観るのか?

少し前に話題になった書籍「映画を早送りで観る人たち」を読んだ。

最近、若者を中心に、映画を「早送り」や「飛ばし観」する人々が増えており、どういう意図でそういうことをしているのか、取材した書籍である。

僕は映画を早送りで観たことはないが、YouTubeに早送り機能がついているので、よく利用している。ラジオみたいな、語り主体のものであれば早送りにしたほうが手っ取り早いからだが、「情報を取得する」ことが目的であれば、こちらのほうが都合が良い。

映画を早送りするということは、つまり、内容を流れで見たいわけではなく、かいつまんで、ポイントだけ見たい、ということである。自主的に観たくて見る、という感じではなく、ある種の義務感というか、嫌々見ている、ともいえる。

鉄道マニアの人は、より長く鉄道に乗っていたいので、速い電車ではなく、わざわざ鈍行に乗って旅に出たりする。でも、普通の人は目的地に早く着くことが目的なので、新幹線で行きたい、と思う。目的が違うので、手段が変わるのは当然のことだ。

しかし普通の人でも、休みの日に旅行に行くときは、新幹線を使うのはやめて、クルマで下道を走ろう、ということもあるだろう。これも、そういう行動をとるのが目的だからである。

「映像を見る」行為は、「本を読む」行為とは全く違うものとして認識していたが、本質的には同じことなのかな、と思っている。

映像を早送りで観る人たちが話題になったとき、映像製作者は「そういう見方をしてもらうために作ったわけじゃない」と嘆いた、という話があるが、本についてはどうだろうか。

本は、普通に頭からおしりまで読む人もいれば、必要な部分だけ拾い読みする人、つまらない部分は飛ばして読む人、などさまざまな読み方がある。「早送りで観る」ということは、つまり「速読」と同じと言えるだろう。

しかし、飛ばし読みの対象となるのは基本的に実用書などになり、必要な情報を手っ取り早く手に入れるため、というのが目的となるような気がしている。小説などは、速読や飛ばし読みに向かない。

つまり、「仕事で読む本」は飛ばし読みしても、「趣味の本」は飛ばし読みはしない、ということだ。飛ばし読み、速読する本というのは、「義務感で読まされている本」と言えないだろうか。



映像を観るのと本を読むのが似ているとすれば、「リテラシー」という言葉もそのうち映像に適用できるようになるのではないだろうか。映像がこれほどカジュアルに、大量に触れることのできる時代になったので、文字を読んで読解する能力と同じように、映像を観て読解する能力も今後は問われるようになる、と。

「早送り」の対象になるのは、本書を読む限りトレンドのドラマなどに限られるようだが、そういった作品は「飛ばし飛ばしで観ても意味が繋がる」というだけだろう。

普段から早送りで観ている人も、それなりに内容のある作品を鑑賞するときは、普通の速度で見てもよくわからないのではないだろうか。そういう作品は、じっくりと腰を据えて見る必要がある。

映画を早送りする人たちは、いざ自分たちがそういう内容のある作品を観るときはじっくり腰を据えて観ると言うのだが、普段からそういう鑑賞に慣れていないと、なかなか切り替えるのは難しいのではないだろうか。

また、早送りで観るのが中心になれば、自然と難しい映画などは手に取ることも減るだろう。なので必然的に、内容のないものを飛ばし飛ばしで大量に消費することになり、自分の中に何も残らない。

対して、普段からじっくり作品を鑑賞する派の人は逆に内容のない作品は手にとらないので、両者の間には明確な差が生まれる。なので、こういう「視聴の姿勢」も一種のリテラシーと言えるのではないだろうか。

作り手側も、飛ばし飛ばしでも大量に消費されるほうが都合が良いので、大量にそういったものを制作することになる。この傾向は強まることはあっても弱まることはなさそうなので、ますますコンテンツの質が低下することも考えられる。

最近、妻とスタンリー・キューブリック作品を順番に鑑賞しているのだが、普通の速度で鑑賞しているのに意味がわからない。視聴体験は感動とはほど遠く、「一体何を観させられているんだ?」と混乱する。

しかし、映画の内容は不思議と記憶にしっかり刻み込まれ、時間が経ってもそのことについて考えていたりする。

映画を早送りにしないと観られない人は、ぜひキューブリック作品を見ることをおすすめする。きっと、早送りでは意味がわからなすぎて、最終的には普通の速度で見返すことになると思う。まあ、「意味がわからない、つまらない、観たくない」で一蹴されそうではあるが。


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