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「死」とは「生きていることを実感する」こと

作家の山本文緒が書いた日記本、「無人島のふたり」を読んだ。

直木賞を受賞した作家であり、数々の小説の著作がある。女流作家だが、僕は結構大学生の頃に愛読していて、大学の近くのブックオフに読んだことがない作品が並んでいるとすかさず買っていた(著者からしたら、新品で買えよ、と思うだろうが)。

上記の理由により、もしかしたら作者本人に入ったお金はあまりないのかもしれないけれど、かなりファンだった。

山本文緒は2021年10月13日に、膵臓癌のため58歳で逝去した。その死は亡くなられた報道で知ったのだけれど、もともとファンだったということもあり、かなり衝撃を受けた。

本作は、告知を受けてから亡くなられるまでの日々を綴った日記である。

これまでに死んだ経験はないので、これから死ぬ人がどういう気持ちで日々を過ごすのかについて、自分の体験を記すことはできない。

そういえば、「100日後に死ぬワニ」という作品がちょっと前にSNSで流行っていたけれど、あれはワニ自身は「死ぬ」という自覚がないという設定だったので、割と気楽に日々を過ごし、読者だけがそのうち死ぬことを知っている、というような構図だったように思う。

余命を告知されたがん患者は、自分の人生の残り時間がある程度わかっていて、それに向けて日々を過ごしていくのだから、なかなか壮絶である。

告知を受けてからの日々はさぞ絶望の日々を過ごしていることと思われるのだが、その日の体調の良し悪しで気分の上下があるらしく、体調が良い日はそれなりに気分は良いらしい。体調がちょっと悪い日は「このだるいの、いつ治るんだろう」と思ったときに、ああもう治らないんだ、これから死ぬんだ、というのを思い出して絶望するのだとか。

体調がよく、冷静なときは、自分の葬式に来てもらう人のリストを作ったり、夫に各種ログインパスワード等を引き継いだり、そういった事務的なこともこなしていったようだ。



「今日がもし世界の最後の日だったら何を食べる?」という定番の質問がある。余命を宣告されたがん患者は、ほとんどそれに近いような気がする。

末期癌になってくると食べるものもかなり制限されるので、本当に死ぬ前日に食べるものは選べないのだけれど、余命があと3〜4ヶ月というタイミングであれば、それまで食べたかったものが食べられるということはあるかもしれない。しかし、実際のところ、たとえそれがどれだけ高級なものであっても、今際の際で食べたことのないものを食べたいとは思わないのではないだろうか。

いつも食べていておいしいとわかっているものとか、昔食べたことがある、思い出のあるものなどを食べたくなるような気がする。そういう意味合いで言うと、自分は何が食べたくなるのだろうか。

歳をとると涙もろくなるというが、あらゆることを自分ごととして考えてしまうからかな、と思っている。たとえば自分にがんが見つかって、あと数ヶ月で死ぬということになれば、相当辛い。もちろん奥さんがそうなったと思っても辛いし、どちらかがそうなったとしても残された方の気持ちを考えると少なからず辛くなる。

しかしいつかは人は死ぬのだから、先人が書き記したものを読んで、少しでも心に備えを持っておき、日々を大切に生きるということが大事なことなのだろう、と思う。

最近、「人が死ぬ」「動物が死ぬ」「機械が死ぬ」ということについて考えることがある。人が死ぬことと、動物が死ぬことと、機械が死ぬことは、同列に語るのはおかしいと言われそうだけれど、実際のところ、機械だろうが人間だろうが、死ぬという現象には変わりがないと思っている。

例えば、ずっと使ってきたパソコンや冷蔵庫がスイッチを入れても動かなくなったとき、それは「死んだ」と言えるだろう。少なからず悲しくなる。もちろん修理して治るようなものもあるが、直せないぐらい壊れてしまったり、直すためのお金がかかりすぎてしまう場合は、そのまま引導を渡すことになる。

そこでひとつ言えるのは、どちらかというと「死んでいる状態」の方が安定していて、普通の状態なのではないか、ということだ。世の中のほとんどの物質は死んでいるというか、生命を与えられていない。生きている方がはっきり言って異常な状態であり、それを維持するためには莫大なエネルギーを要する。

つまり、あらゆるものの「死」というのは、逆説的だが、「生きていることの奇跡」を実感することに他ならないと思う。だから死ぬことに対して、本来悲しみを感じる必要は無いのだ。悲しみを感じるのだとしたら、それまで生きていたという奇跡を体感したということである。

命の尊さというのは、知識や教えではなく、自分で実感して、積み上げていくものだと思う。

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