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理解はあとでいい

先日、人事系の専門家の方とお話する機会があった。話をしていて、主に採用に関して、なるほどなと思ったことがあった。その方は誰もが名前を知る大企業で人事系の仕事を二十年以上されているベテランの方だった。
 
いい人材を採用するにはどうしたらいいのか、という話題で、その人の答えは明確だった。「よくわからないやつを採る」。以上。

よくわかるやつ、気が合うやつは(なるべく)採らない。わけのわからない、理解できないやつのうち、「こいつはなんかありそうだな……でもよくわからない……」というやつを採る、という。明快だが、少しわかりにくい。
 
だが、理由は簡単だった。「理解できるやつ」というのは、自分の経験や、自分がすでに理解している範囲におさまっているやつのことだから、蓋を開けてみると、たいしたことがない、ということらしい。

自分が理解できないやつは、自分のそれまでの経験や理解を超えている可能性がある。だから、そういうやつを見極めて、「よくわからないけれど」採用する、というのだ。もちろん、リスクもそれなりにあると思うのだが……。

これはあくまで採用に関する話だったのだけれど、僕はしばらく考えるうち、これはいろんなことに応用できるな、と気づいた。簡単にいうと、何か新しいものに出会ったとき、「よくわからない」のがデフォルトなのだから、「理解はあとでいい」のではないか、と気付いたのだ。
 
子どもはあらゆることに疑問をもつ。子どもと話していると、質問ぜめに遭うので、こちらもそれなりに頭を使う。なかでも、一番頭を使うのが、訊かれた素朴な質問に対して、「答えは知っているけれど、いまのこの子にはまだ理解できないかもしれないな」と思う瞬間だ。

なんとか理解させようとロジックを考えるが、うまくいかないときもある。それもそのはずで、相手の知識、人生経験、語彙が不足していると、どうしても伝えられないことがある。そのときに、どう伝えるか。
 
子どもは好奇心旺盛なので、あらゆることを知りたがるが、同時に興味がほかのものにうつる速度もはやい。だから、「この子にはまだ理解できないかもしれないけれど、はぐらかさずにきちんと教えておこう」という行動が正解なのかもしれない、と思うようになった。

完全に理解されなくてもいい、でもはぐらかさずに答える、というのが正解のような気がするのだ。

自分を超えるものは、いまの自分には理解ができない。だから、理解はあとまわしでいい。そのうち理解できるようになる。

これは、わりと日本古来の武芸や思想の学問にみられる東洋的な考え方だけれど、新しいことを習得するうえでは大事なことなのかな、と。

武芸の稽古では、なぜそのような動きをするのか、質問しても教えてくれない。しかし、繰り返し繰り返しそれをやっていって、身についてくると、その背後にあるロジックが見えるようになる。そういう世界なのかも。
 
「よくわからないこと」に正面から向き合う。そして、そのときは理解できなくてもいいから、とりあえずそれを「見る」。それが、「今の自分」を超える秘訣なのかもしれない。採用に限らず、自分の行動においても。
 
美術館で現代アートをみると、「全くわからない」。でも、その「わからない」ところが、出発点なのだ。(執筆時間12分28秒)

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