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違う人間になること

世の中には、インプットを好まない人がいる。インプットというとやや抽象的だけれど、要するに新しい情報を取りにいくことに関心がない人、ということだと思う。

新聞を読んだり、本を読んだりするのはなかなか能動的な要素を求められるので、ぼーっと眺めていればそれで向こうから飛び込んでくるテレビを見る行為とは少し違う。テレビの情報は基本的に毒にも薬にもならない情報が多く、「瞬間的には面白いけれど、長期的にはほとんど役に立たない情報」ばかりなので、それは「情報」とは言えないと思う。

つまり、「自分の思考に影響を与える情報」は、積極的に活字で取りにいかない限り得にくい、ということだ。
 
その人が摂取している情報によって、思考は変わると思う。世の中のことがわかっている人とわかっていない人では、世界の見え方そのものが異なる。

最近、動画サイト(ネットフリックス)で9.11のドキュメンタリを見ているのだが、イスラム原理主義の価値観は我々の想像を超えていると思う。それも、彼らが所有している情報と私たちの所有している情報には大きな隔たりがあるので、思想の違いが起きるのかな、といったことを考えたりもする。

「世界観」というか、世界をどのように捉えているのか、という大きなレベルで、そもそも絶望的に隔たりがあるような気がするのだ。それは、教育が違うからだと思うし、日々接している情報源が全く違うからだ、と思う。


 
自分が詳しい分野は、情報の感度が高くなる。素人であればなんとなく見過ごしてしまうようなちょっとした情報も、マニアの人は着眼点で違うので、しっかりと「情報」として授受じゅじゅできる。自分も、仕事の専門分野だと、判断できることが多いと思う。

「経験が豊富である」ということは、それだけ「たくさんの情報を持っている」ということであり、どういう点が重要なのかの見極めもできるようになる。だから、組織のリーダーは高齢の人が多いのだろう。
 
情報を手にすると、物事の判断基準が変わる。つまり、自分が「変化する」ということだろう。同じ状況にあって、これまでの自分ではAと判断したはずが、情報を得たあとだとBという判断を下すかもしれない。もちろん、情報を得たあとで下す判断のほうが正しいはずだが、自分が変化することに変わりはないので、自分が変わってしまうことを恐れる人は新しい情報を得よう、とはあまり考えないのかもしれない。

逆に言うと、自分がどれだけ変わってしまっても構わない、と思える人だけが、どんどん新しい情報を取りに行くことができる。そして、自分自身が変化していくことそのものを楽しんでいる。


 
あと、情報をたくさん得ると、身動きがとれなくなることを心配する人もいるようだ。よく「頭でっかち」という言葉を使うことがあるが、知りすぎることで、動けなくなることはあるかもしれない。

しかし、僕はこの場合、もともと得た情報に固執しているからこそ新しい情報が入らなくなってしまっているのではないかと思う。正しい変化(成長)を遂げるためには、自分が持っている情報の大半を潔く捨てて、本当に大事なものだけ残す、そういうことを常にしていかなければならないのかな、と思う。
 
常に新しい情報に触れていくこと、過去の情報をどんどん捨てていくこと、変化をおそれないこと。重要なのは、このあたりなのかもしれない。

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