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資格とクリエイティブ

普通に仕事をしていると全く意識することはないのだけれど、就職や転職のことを考えるとき、資格のことを考える。第三者に、客観的に自分をアピールする必要があるときに、こういう資格は必要なのだ。

しかし、普段は意識することはない。なぜだろうか。

それは、「資格」というのは文字通り、「何かをする前提条件を満たしている」ことを意味していて、資格を取得した直後の状態というのは、「それをやってもいいですよ」状態にすぎない、ということだ。

運転免許でいえば、免許取り立て、ペーパードライバー、みたいな。運転免許をもっている人が、必ずしも運転できるわけではない、ということを示している。
 
資格マニアみたいに、いろんな資格を持っている人がいる。そういう人たちはすごいなと思う。少なくとも、自分には真似できない。

自分がやる予定もない仕事の資格に時間と労力を投下するモチベーションはないので、勉強しても持続しないだろう。仕事をするうえで必要であれば、取ろうとするかもしれないけれど(その仕事をやるためにはそれが必要なのであれば、とる必要があるのは言うまでもないが)。

こないだ、「クリエイティブ」ということについて書かれている本を読んだ。著者は、クリエイティブの本質について、その本で話していた。
 
「クリエイティブ」の本質とは、「それまで価値がないと思われていたものを『発見』することにある」とその人は解析していた。

たとえば、千利休は、どこにでもあるような茶器や、古びた和室、狭い庭に価値を見出し、そこに無限の宇宙を表現した。物質的には、「もともとそこにあった」ものなのだけれど、千利休が、それを用いて、新しい宇宙を表現したために、新しい価値がここに加わったのだ。これがクリエイティブの本質だという。
 
「資格をとる」というのはけっこう憂鬱だ。それなりの時間や労力をそこに投下しなければならない。しかし、それなりの時間を投下すれば、確実にそれを取得することができる。いわば、勉強の道がちゃんと用意されている。

でも、本当はその先、「それをとってから、それで何をするのか」が大事なのかな、と思う。「もともと価値がある」とわかっているものなのだから、「とる」までは簡単だが、そこから、自分で新しい価値を見出していかなければならない。それは簡単なことではないな、と。

資格について、別の角度から考えてみる。たとえば、「もうすでにやっていることだけれど、対外的にそれを評価してもらうために取得する」みたいなことも出てくると思う。

僕は日常的に英語を使っているからそれなりにはできるはずなのだけれど、ちゃんと対策をしたことがないのでTOEICの点数はものすごく低い。ちゃんと勉強(というか、TOEICに合わせた対策)をしたら、どれぐらいの点数が取れるのか、とも思う。

それと似たようなことで、フォークリフトの免許は僕は持っていないが、ああいうのを取りに行く人は、たいてい普段からそれに乗っていて、「そろそろちゃんと取ってこい」みたいな感じで取りに行かせるのだそうだ。

だから、フォークリフト講習に行くと、みんなやたらと操作がうまいらしく、そこではじめて乗る人なんてのはほとんどいないという。それは、「すでにやっていることをあらためて取りに行く」ことなわけで、すでに価値を知っている、身に付けている状態ともいえる。
 
資格はただ取ればいい、というものではなく、それをどう使うかを考えるかが大事。でも、何がやりたいのかわからなければ、とりあえず取ってみる、というのもひとつの手ではある。

手当たり次第にとるのではなく、目的のためにとる。必要なのは、あくまでも実務だと思う。

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