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死は試練ではなく、むしろ「機能」なのだなと思う

糸井重里が主催するウェブサイト「ほぼ日」で、「老いと死」をテーマにした特集がはじまるらしい。

上記動画およびコンテンツについては全く見ておらず、ただ見かけただけである。しかしせっかくなので、これ以上なく重くて深いテーマではあるが、少しこれについて考えてみたい。

死は人間にとっては重要なテーマだ。奥深いテーマではあるが、現象としてはシンプルである。

生物には生きている状態があって、生きるためには生存のための条件がある。その条件が破綻すると死に至る。しかし、死んでいる状態のほうが安定している。生き続けるためには、生きるための条件を整え続けないといけない。

そういう意味でも、「生きていることが尊い」と考えるのは自然なことだろう。何もしなければ、「生きている状態」を維持できないからである。

人は死ぬとどうなるのだろうか。苦しいのだろうか。しかし、普通に考えると、死に近づくほど感覚も喪失していくわけなので、基本的には楽になるはず。よっぽど苦痛を感じて死ぬ場合は別だが、たとえば大けがをしたり病気をしたりして長い期間闘病する場合はかなりの時間を苦痛と向き合わなければならないわけで、死ぬほうがはるかに手軽といえるだろう。

意識が喪失するのはかなり怖そうだが、考えてみればみんな日常的に睡眠をとるわけで、毎日意識を喪失している。そう考えると、主観的には死はそこまで特別なものではないのだな、とも思える。



死が怖いと感じるのは、本能にプログラムされているからだろう。「死んでもいい」と口に出す人は多いが、本気で思える人は少ないし、そう思っている人は簡単に死んでしまうので、長生きできないはずだ。

また、人間は文化的な動物なので、自分が死ぬということを客観的にイメージできるので怖い、というのもあるだろう。野生動物はもちろん本能的に死にあらがうが、ある一定の状況でもう終わりだとわかると抵抗をやめるという。どういう心境なのだろうか。

自分の死は感覚的には怖いが、実際にその場面が訪れたら、どういう気持ちになるのだろうか。死ぬその瞬間は怖さはないのではないか、と思う。なぜなら、死ぬ瞬間は一瞬であり、死んだあとは感覚もなくなるからだ。

むしろ死が怖いのは周囲の人々だろう、と思う。身近な人が死んでしまうのは非常に怖い。たとえ見知らぬ人でも、そこらへんに死体があったら怖いと思うだろう。もともと生きていた状態をイメージできるからこそ、死体が怖いともいえる。

余命があとこれぐらい、とわかっている状態が一番怖いといえるだろうか。しかしそれも、ある一定の期間をすぎたらあまり気にならなくなるような。実際はどういう気持ちになるのか、そういう状況にならないとなんとも言えないけど。

いずれにしても、(いまのところは)死は誰にでも平等に訪れる。死ななかった人はいない。いつまでも死なない人がトップにいたら、社会が停滞してしまうだろう。なかなか引退しない経営者は世の中にいるが、決して不死なわけではない。そのうち老衰するので、必ずバトンは次へと渡される。

死というのは試練ではなく、むしろ「機能」なのだなと思う。個人としてみたら過酷な試練だが、広い視点でみると、必要なことなのだな、と。

AIが人間なみの知能を得たとして、次に問題になるのは「AIが死なない」という問題だったりして。

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