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その「突然」は、本当に「突然」なのだろうか?

これまでの人生において、テレビをあまり真剣に見ることはなかったのだけれど、なぜか中学生ぐらいの頃にやっていたオカルト系の番組が好きで、それだけ、一時期毎週のように見ていた。

当時としてもちょっとしたオカルトブームだったのか、変な霊能者みたいなのが出演して、心霊写真の解析をしたり、というようなうさんくさい企画をしょっちゅうやっていた(今もその手の番組はあるのだろうが……)。

そのとき、興味深いなと思ったのは、霊能者というのは通常の人には見えないものが見えるらしい、ということである(だからこそ霊能者なのだが……)。「そんなのインチキだろ」と思いつつも、自分には見えないのに、見える人がいる、というのはなんとも不思議で、それが興味深くて、くだらないと思いつつも番組を視聴していたのかもしれない。


 
小学生ぐらいの頃、柔道の試合を見る機会があった。柔道のルールは子どもにはちょっとわかりづらく、見ていてもどっちが優勢か、というのは全然わからなかった。

しかし、一緒にそれを見ていた友人は柔道のことが多少はわかるらしく、やや興奮ぎみにそれをみていた。見ているものは二人とも同じなのに、受け取り方が違う、というのは興味深い出来事ではあった。

その人の知識や経験によって、見ている映像が同じでも、違うものを受け取ることができる、というのは往々にしてあるようだ。
 
最近僕がハマっている将棋でも、それは顕著にある。初心者と経験者では、同じ盤面を見ていても、「見えているもの」が違うのだ。

素人と経験者でもその違いはもちろん出るものの、プロ同士でもそういったことは起こり得るらしい。渡辺明名人が、自身のブログで、藤井聡太竜王と感想戦をしたら、自分には全然知らない手がバンバン出てきて、「感想戦がエグい」ということを書いていた。

もちろん、渡辺明名人はものすごく将棋が強く、深く深く読んでいるのだが、その名人をもってしても見えない手が見える、という藤井聡太はやはり別格の存在なのだろう。


 
当たり前の話だが、「気づかないこと」を人間は知覚できない。誰かが背後から自分を殴ろうと近づいてきても、「気づかないと」、もちろん殴られてもその瞬間まで気づくことができない。背後に近づいてきたとき、殺気を感じることができれば(?)、避けることができる。逆に言うと、「気づく能力、見える能力が低いと、何もかもが突然起きる」ということになる。
 
突然部下が会社を辞めると言い出したとか、突然自分が解雇されてしまったとか、突然彼女が別れを切り出してきたとか……。人生には「突然」起きることがたくさんある。

しかし、その「突然」は、本当に「突然」なのだろうか? そう自分に問うことには、きっと価値があるだろう。

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