教育のジレンマ
たまに「教育のジレンマ」について考えることがある。
世の中のあらゆるものは「サービス」として世に提供されているが、「教育」も普通のサービスと同じように提供されている。が、教育は普通のサービスとは違う。なぜなら、教育をこれから受けようという人は、教育を受けることによるメリットがその時点ではまだわからないからだ。
子ども時代に先生の言うことを全く聞かなかった子どもが、大人になってからあらためて学び直したいと思うのは、まさにこの「効用が事前にはわからない」ことによる非対称性から生じるものだと思う。はじめからちゃんと聞いておけばいいものの、必要になってはじめて、その有効性がわかるらしい。
そのため、教育によるメリットはわかりやすいものばかりが強調されるようになり、いい大学に入れる、いい企業に就職できる、という「チケット販売所」みたいになってしまうのだと思う。
資本主義社会で合理的に考えていくとそうなってしまうのだろうか。
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一方で、ネットを見ていると、「どういう本を読めばいいか?」という質問を見かける。これも、「本を読むことによって得られるもの」がイメージできないから、こういう質問になるのだろう。
ただ、こういう質問をする人は、「本を読むことによって得られる何か」については、ぼんやりと認識している、ということになる。
この質問に対しては、「なんでもいい」というのが答えではある。とにかくなんでもいいので、自分の関心のある本を読まないとはじまらない。好きなように読書をすると、たとえばインチキ科学本にハマってしまって考えが偏ってしまうことを懸念する人がいるようだけれど、別にそれでもかまわないのでは、と思う。
読書をしていると、必ず「沼」というか、何かの思想にかぶれてしまうことがある。しかし、幅広い読書を続けていけば、視野が広がり、そのうちインチキなものが見抜けるようになり、新しい視点が獲得できる。成長とは、そういうことなのだろう。
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教育のジレンマとして挙げられるもうひとつの側面は、「師は最新のものは教えられない」ということもあると思う。
何かを教える先生は、ひとつ前の世代のものを習得しているということなので、最新のものはわからない。
たとえば将棋界でいま起きているのは、AIを使った解析だが、ひとつ前の世代の棋士はもちろんAIを使って分析そのものはできるのだが、新しい世代が呼吸をするように受け入れている「新しい概念」をすぐに理解することができない。
人間は、基本的に生きている間に考え方が変わることはなく、社会全体の認識がアップデートしていくのは、単に世代交代していくからだ、というのを聞いたことがある。
そうなると、あたらしい概念というのは、基本的に教育ではカバーされない、ということになる。これもジレンマといえるかな。
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