見出し画像

提案だけでは足りない

最近、2ちゃんねる創設者のひろゆき氏が人気だ(ちょっとブームも過ぎた感はあるが)。

彼はよく自宅からインターネットで生配信をしており、それを部分的に切り取った、いわゆる「切り取り動画」というものが人気を博している。僕も、一時期面白いと思っていくつか動画を見たのだが、ある程度見ていくと返し方のパターンが見えるようになり、いつしか見るのをやめてしまった。
 
ひろゆきと同じようなタイプの人が身近にいるから、というのもあるかもしれない。会社員という組織で働いていると、たまにひろゆき氏みたいな人に遭遇する。ひろゆきを見ていると、そういう人たちのことを連想してしまうようになったので、見る気がなくなってしまったのかもしれない。

ひろゆきが言うことは、正論もあるが、実際には的外れなことも多い。たまに彼の発言が「炎上」することもあるが、それでも本人は痛くもかゆくもないのは、彼自身は何も生み出していない、何も責任を負っていない、という点にあるだろう。
 
街で出回っているビジネス書や自己啓発本などを読むと、「評論家になるな」と言ったことが書かれている。他人の案を評価するのではなく、改善策まで含めた「提案」をするべきだ、というのである。

しかし、僕の考えは少しそれとは違っていて、ただ「提案だけ」をする人なら世の中にごまんといる。問題は、「提案」をするだけでは何も変わらない、というところにある。

ひろゆき氏は頭の回転が早くて、あらゆる質問に対して「ウケる」回答を返すことができるのは確かだ。しかし、そもそもの世の中のことがあまりわかっていないか、勘違いをしているので、頓珍漢な答えを返していることも多い。しかし、実際に自分が表立って何かをする、ということがないので、その検証はなされない。

提案だけなら誰でもできるが、アウトプットができてはじめて、「世の中に関わっている」と言えると思う。つまり、ただ提案をするだけでは、まだ「批判を受ける立場」にない、ということだ。


 
最近、「責任」とは何か、ということを考えるようになった。よく、「実行するのとそうでないのとでは、天と地ほどの差がある」ということを聞くけれど、僕は「責任のあるのとないのとでは天と地ほどの差がある」とよく感じる。

責任となんなのか、というと定義としては非常に曖昧なのだけれど、中心人物となって、積極的に事業を進めていく人、ということになるだろうか。外野から単に「提案」しているだけの人は、そういった責任者になることはない。

そして、通常はそういった責任者にならなければ、自由に発言をすることはできないので、なんだかもやっとしたものを感じるのである。本当に素晴らしい提案をしているのならば、「じゃあお前がやってみろ」という具合に、何かの責任を任されたりするものだが……。

そういうことがないから、たぶん責任というものに対しては特に考えないままなのだろう。

そして、いろんなプロジェクトを推進してみるとわかるのだが、当初の予定通りに事が運ぶことはほとんどない。最初考えていたことと、実際に起きていることのギャップが「検証」され、何度も修正を余儀なくされる。時にはゴールすらも「修正」しながら、少しずつ前に進んでいくしかないのだ。


 
まあ、外野から提案をするだけでは、それを本当に実行することの大変さもないかわりに、見返りである「楽しさ」も享受することはないだろうから、それはそれで平等なのでは、ということを思ったりもする。一般的な視聴者から人気を博しても、じゃあひろゆきを会社の顧問にしよう、という動きがないのと同じように。

好き勝手にいろんなことを批判したり、提案したりする人はいるけれど、それを実際に推進する人こそ、真に尊敬すべき人だと思いますけどね。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。