見出し画像

最初に紡ぐって言い出したのは誰?

言葉は、「紡ぐ」という表現をする。

これは割と標準的な日本語に存在する表現だと思うのだけれど、一体誰が最初に言い出したのだろう。「紡ぐ」という表現があまりにも適切なので、この言葉を思い出すたびに、その表現の感性の鋭さに驚いている。
 
紡ぐと言う言葉でまず連想されるのは、「糸」だろう。綿のような塊から、細い糸が紡ぎ出される。

もともとはひとつの塊であったものが、糸に紡いでいくことによって、じつはひとつながりであることが明らかになる。これが「紡ぐ」ということだ。
 
言葉は、常に「紡ぐ」しかない。どんなにたくさんの量の文章でも、読むときには一文字ずつ読んでいく。この僕が毎日書いているブログも、書くとはもちろん一文字ずつだし、読むときも一文字ずつ読んでいくしかない。

必ず最初の文があり、終わりの文で締められる。改行などはあるものの、基本的にはすべてが一本の糸のように、繋がっている。

僕はエッセイや小説を書くときは、一切事前にメモしないということを心がけている。

だから、ネタ帳などというものは一切ない。昔は文章書く前にメモを作ったり、何かを思いついたりしたときにそれをストックするようにしていたが、最近はそういうことを、意識的にゼロにした。

頭の中にある、ぼやっとしたイメージを、糸を紡ぐように、一つ一つ言葉にしていく。1つの言葉がまた別の言葉を呼び、一塊りの文章として吐き出されていく。これが紡ぐという行為でなくて、なんだろうか。
 
不思議なことだが、ネタ帳のような形でメモ帳にストックをしなくなってから、ネタ切れが基本的にはなくなった。

今日は何も書くことがないなぁ、という日はもちろん存在する。しかし、書くことがないというのはすなわち、「発見」や「面白みがない」ということであって、本当に何も書けないと言うわけではない。

何かのとっかかりを自分の中に探し、それを起点に言葉を紡いでいけば、文章を生み出すことができる。これはどちらかと言うと訓練によるものであり、長い時間をかけてそれを習得していたように思う。

いつか自分が歳をとったときに、自分の書いたものをまとめて読み返すときがくるかもしれない。

そのときに、連綿と書いてきたものが、一本の糸として、過去から現在に伸びていたら。きっと、それをうまく拾い上げて、ひとつの大きな塊が見えてくるだろう。
 
逆に言うと、言葉として紡いでおかないと、いつまでたってもふんわり、ぼんやりとした塊のままだ。それだけでは、なにも使い道がない。

言葉を紡ぐ。自分の思考を一本の糸にする。そして、人に伝え、自分でも理解する。これが楽しい。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。