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もう1人いる!

ちょっと前に、「君の名は。」という映画が流行った。

僕の予想をはるかに超えて大ヒットした映画だった。あまり見るつもりはなかったのだけれど、出先で時間を持て余したことがあって、時間を潰すために見たことがある。ストーリーはなんとなく覚えているが、細かいところは忘れてしまった。
 
男女が入れ替わってしまうという設定。非常にオーソドックスで、よくもまあ、こんなに使い古された題材で大ヒット映画を作ったものだなと思う。

いや、ある程度古典的だからこそヒットしたとも言えるか。古典的であればあるほど、この設定をどうやってストーリーに昇華させるか、クリエイターの技量が問われる。
 
人間が入れ替わるというのはオーソドックスだが、「自分がもうひとりいる」というのも、小説や漫画などで結構よくある設定だと思う。いわゆる、ドッペルゲンガーというやつだ。
 
自分と全く同じ人間が同じ街に住んでいる。自分のドッペルゲンガーと鉢合わせると死ぬという設定もある。同じ人間が2人も存在してはいけないので、バッティングすると不都合が生じるからだろう。

正直、ドッペルゲンガーというアイデアは構わないのだが、鉢合わせをした瞬間にアウトというのは、なんともご都合主義的な感じがして好きになれない。フィクションとしてみた場合、同じやつが二人いるとややこしいので、そういう設定になった背景は理解できるのだが……。

人間とは、複雑な構成の高等生物ではあるものの、突き詰めると有機的な物質に過ぎないから、そっくりそのままコピーすれば、自分と同じ人間をもうひとり作り出すことは可能だろう。双子と言う意味ではなくて、記憶や肉体まで完全に同じな自分のコピーのことだ。
 
もちろん現在の技術ではまだ不可能だが、いずれ、人体の全ての情報をスキャンすることが可能になれば、自分と全く同じ人間を量産する時代が来るかもしれない。

こうなると、技術的な問題ではなく、倫理的な障害のほうが大きいだろう。クローン人間を生み出すことが容易に容認されるはずがない。

でも、たとえば臓器の情報など、部分的なコピーはどうだろう? すでに、人体に機械を埋め込んだりするのはふつうの医療行為だし、人為的に細胞を培養する再生医療なども注目されている。テクノロジーが発達すれば、医療の分野から、少しずつ、倫理観が崩れていく可能性はある。
 
たとえばこんなホラーのストーリーはどうだろう。

実は寝ている間に、自分がどこかに連れ去られるが、記憶まで完全にコピーした別の人間が、自分の部屋のベッドに代わりに寝かせられる。自分は実はどこかに連れ去られてひどい目に遭っているのだが(想像にまかせます)、代わりの人間が「完全に自分と同じように振る舞っている」ために、周囲はそれに気づかない。

そういったホラーめいたことも、今はできないが理論的には可能だ。そう考えるとなんだか怖い。

あるいは、こういうのはどうだろう。自分の脳みそを毎日取り出して、別の人間に移植していく。

肉体をどんどん新しいものに入れ替えていけば、実質的に老化しない。もし不老不死が実現するとしたら、自分の肉体を同じに保つのではなくて、次々に新しいものに入れ替えていくという方法のほうが現実性が高いと思う(もっとも、肉体というのは新陳代謝によって常に新しいものに生まれ変わっている)。
 
そうやって考えていくと、自分が自分である保証はどこにあるのか? 自分は何を持って自分のことを自分だと認識しているのか? わからなくなってきますね。
 
突き詰めていくと、記憶や肉体を超えた「意識」、それこそが「自分」というものになるのでしょうか?

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